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秀吉ゆかりの国宝茶室、完全復元を 天神ビッグバン

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秀吉ゆかりの国宝茶室、完全復元を 天神ビッグバン

 福岡・天神にあるビルの内部に、国宝に指定された茶室の遺構がひっそりと残る。戦国時代後期に活躍した博多の豪商、神屋宗湛(かみや・そうたん)が建て、豊臣秀吉も訪れたが、空襲で焼失した。再開発プロジェクト「天神ビッグバン」が進む中、歴史が詰まった茶室を完全復元しようと子孫が奮闘している。 (中村雅和)

                   ◇

 茶室は、秀吉による九州平定と同時期の天正15(1587)年ごろ、宗湛が博多の自邸(現在の福岡市博多区奈良屋町)に建てた。「吹(すい)毛(もう)軒」という名称だった。

 茅葺(かやぶ)きの草庵風の建物で、茶室は3畳半だった。素朴なたたずまいの中に、優雅さを秘めていた。この茶室で宗湛は、秀吉や側近の石田三成をもてなした。

 当時秀吉は、戦乱で荒廃した博多の復興を命じた。宗湛らも資金面を含め、尽力した。現在の博多につながる復興プランは「太閤町割」と呼ばれるようになった。

 当時の茶室は、政談・商談の場でもあった。

 文禄元(1593)年の朝鮮出兵に際して、秀吉は再び博多を訪れる。茶室での密談の結果だったのか、秀吉は宗湛に、名護屋城(佐賀県唐津市)の城下などへの出店許可を与えた。

 宗湛はこの取引で、莫大(ばくだい)な富をなした。博多は日本を代表する商都として発展した。

 茶室の庭には後に、秀吉が朝鮮半島から持ち帰らせた「火炎燈(どう)籠(ろう)」が置かれた。

 宗湛は後に、筑前に移封された黒田家とも関係を築き、御用商人を務めた。

 茶室は黒田家の侍医ら人手を点々とした。明治34年、長崎の商人が買おうとしたところを、福岡に基盤を置いていた政治団体玄洋社の初代社長、平岡浩太郎が買い取った。平岡は福岡藩士の家に生まれ、維新後は自由民権運動に取り組んだ。

 平岡は茶室を現在の福岡市中央区天神の私邸に移した。宗湛と浩太郎から一文字ずつ取った「湛浩庵(たんこうあん)」と呼ばれるようになった。昭和11年4月には、国宝指定を受けた。

 だが、20年6月の福岡大空襲で全焼した。茶室に付属する庭「露地」の飛び石などが、かろうじて残った。

 戦後、この場所に富士銀行(現みずほ銀行)のビルが建てられた。石は3階の中庭に移され、今に至る。

 ■天神ビッグバン

 茶室については昭和38年、黒田家の菩提(ぼだい)寺でもある崇福寺(博多区)で、写真や絵図面を基に復元された。

 ただ、宗湛の子孫の神屋浩氏は、ビルに残る石も含めた完全復元を目指す。

 一つのきっかけが福岡市が進める「天神ビッグバン」だ。

 石が置かれるビルは35年完成で、築55年を超える。いつ建て直し計画が浮上してもおかしくない。

 浩氏は神屋家に伝わる古文書などを通じて博多の歴史について学ぶ「吹毛軒・湛浩会」を主宰し、石や茶室について勉強会を続けてきた。

 「博多の歴史とともに歩んだ石だから、公の場に茶室を復元するなどして活用したい」。浩氏は福岡市に対し、市美術館(中央区)の中庭への移設・復元を働きかけてきた。市美術館は平成31年3月の完成に向け、大規模改修が進んでいる。

 市美術館の岩永悦子学芸課長は「今後、学芸員が実際に石を確認するなどして対応を考えていきたい」と語った。

 もう一つ浮上しているのが、近隣の旧大名小学校跡地(中央区)の再開発計画だ。

 跡地全体の活用をめぐって、有識者や地域住民を交えた、検討が進む。民間業者から複数出ている案の中に、石を利用した茶室の再建が盛り込まれる。

 浩氏は「140年以上の歴史を持つ小学校跡地に、博多の歴史と関わりが深い茶室が再建されることは意義深いことだ」と強調する。

 ビル内の石は、平岡浩太郎のひ孫、邦幸氏が所有する。邦幸氏は「ビルの建て替えなどの際には、石を運び出す。博多の歴史を物語る、非常に重要なものだ。神屋家の思いとともに、大切にしなくてはならない」と語った。

 石の活用を求め、関係者の模索は続く。