産経ニュース

【今こそ知りたい幕末明治】私学校の守り神、楠木正成 原口泉氏

地方 地方

記事詳細

更新

【今こそ知りたい幕末明治】
私学校の守り神、楠木正成 原口泉氏

勝海舟が書いた「恫悵旧歓如夢」の石碑 勝海舟が書いた「恫悵旧歓如夢」の石碑

 140年前の3月4日から20日までの17日間、西南戦争最大の激戦「田原坂の戦い」があった。政府軍は、田原坂に薩摩軍が敷いた防衛線を破り、4月15日、熊本城に入城した。この時、薩軍の敗北は事実上決した。それでも薩軍は1カ月も熊本・人吉にとどまり、態勢を立て直そうとした。元熊本鎮台司令長官の桐野利秋が作戦を指揮し、電撃隊大隊長の辺見十郎太が、鹿児島県での強制徴募にあたった。

 辺見と桐野は西郷隆盛を神のように崇(あが)めていた猛将である。28歳の辺見は気性も激しく、退却する味方は切り殺して、部下にその生き肝を食べさせたといわれる。その辺見が守り神としたのが、楠木正成公の木像であった。

 木像は、水戸光圀が光厳寺(神戸市)に奉納した3体のうち1体と伝わる。他の2体は現存していない。幕末の文久2(1862)年、寺田屋騒動で闘死した尊皇攘夷派の志士、有馬新七が光厳寺から譲り受け、伊集院郷に移していた。明治になり、鹿児島の私学校の守り神になっていたのである。

 このご神体を、辺見が明治10年に大山綱良県令の許可を得て、自分が区長を務める宮之城(現さつま町)に避難させていた。宮之城の士気を高め、武運長久を祈ったのである。

 今はさつま町にある「楠木神社」のご神体として鎮座している。その楠木神社境内に、西南戦争の戦死者を悼む2つの石碑がある。ともに明治12年建立。

 1つは勝海舟が書いた「恫悵旧歓如夢」の石碑。宮之城の薩軍関係者が、中村正直を介して勝に揮毫(きごう)してもらったという。中村はサミュエル・スマイルズの『西国立志編』を翻訳刊行して自由主義思想をわが国に紹介した洋学者である。西郷はこの書の中の「敬天愛人」を座右の銘としている。もう1つの石碑は、中村の撰と書になる「悵旧の碑」である。

 ところで、辺見が楠公をあがめたのは西郷の影響である。西郷は生涯で200編余りの漢詩を作っているが、楠木正成を詠んだ詩が4編、正成の忠臣・恩地左近が1編、そして児島高徳が1編ある。「楠公の図に題す」には「君が一死七生の語を懐(おも)う、此の忠魂を抱くもの今在りや無しや」とある。

 この詩は庄内士族による『南洲翁遺訓』にも収めてある。また、明治天皇から日本画士の称号を賜(たまわ)った菊池容斎の「桜井駅の図」に漢詩を寄せている(明治5年、鹿児島県立図書館収蔵)。故山田尚二南洲顕彰館長の口語訳には、「満面涙に濡れて我が子正行に懇々と教えを言い残した大楠公、この親子の千年のあとまでも朽ちることに無い芳しいほまれはこの涙の中に込められている」とある。正行は時に12歳、大楠公と小楠公の忠義・忠孝を西郷はたたえている。

 さて西郷は、勝算もなくまた国家ビジョンも欠いたまま、西南戦争を起こしたのであろうか。一般に戊辰戦争から廃藩置県に至る革命では、西郷に国民議会という目標があったという評価がされる一方、西南戦争にはそれが見えないとされる。司馬遼太郎は「西郷軍にとって熊本城を攻めつぶすことが、戦略以前の自明の世界に属することであった。」(『街道をゆく~肥薩の道』)と書いているが、熊本城は日本国政府そのものであったのである。しかも熊本鎮台には食料が乏しかった。もし政府軍の入城が遅かったら、鎮台は潰されていたであろう。しかし政府の対応は素早く、2月19日には征討の勅令が発せられた。

 もし政府軍の進撃が遅れ、熊本城に薩軍が入ったら形勢が、どう転んだかわからない。鎮台が敗れたという衝撃は全国にくすぶる反政府運動を引き起こしたかもしれない。

 西南戦争の発端となった私学校生徒による政府火薬庫襲撃について、西郷は狩猟中に末弟の小兵衛から聞き、「しまった」そして「わがこと止む」ともらしたという。わがこととは西郷の将来構想であろう。わたくしは西郷の構想とは、若者が開拓による「農業立国」を進めるという夢であったと思う。

                   ◇

【プロフィル】原口泉

 はらぐち・いずみ 昭和22年鹿児島市生まれ。東大大学院博士課程単位取得退学後、鹿児島大法文学部人文学科教員。平成10~23年、教授を務めた。23年に志學館大人間関係学部教授に就任、翌年から鹿児島県立図書館長も務める。専門は薩摩藩の歴史。「篤姫」「あさが来た」「西郷(せご)どん」など歴史ドラマの時代考証も手掛ける。