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【今こそ知りたい幕末明治】(7)実はバラバラ!?長州藩 古城春樹氏

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【今こそ知りたい幕末明治】
(7)実はバラバラ!?長州藩 古城春樹氏

 毛利家は江戸時代を通じて周防、長門の2国(防長二州)を領有した。一般には長州藩として知られる。

 だが、防長二州の動向をみる上では、単に毛利家や長州藩という言葉でくくってしまうのは、いささか問題があるようだ。

 というのも、長州藩は、宗家の毛利家(萩藩)のほか、末家の長府毛利家(長府藩)、徳山毛利家(徳山藩)、清末(きよすえ)毛利家(清末藩)、そして大政奉還後に大名として公式に認められた岩国吉川家の各藩(私)領に大別される。各家は江戸時代を通じて、半ば独立して領国を運営した。互いに仲も悪かった。

 経済的に自立しプライドが高い長府毛利家や岩国吉川家は、宗家と特に仲が悪く、岩国吉川家に至っては、宗家との交流は形式的なものに終始した。

 幕末、こうした状況を憂えた宗家の当主、毛利敬親(萩藩主)は、嘉永4(1851)年8月、長府毛利家から銀姫を養女に、同年11月に徳山毛利家から広封(ひろあつ)(定広)を養子に迎えた。この2人を結婚させ、毛利宗家を継がせることとした。また、岩国吉川家とも、安政3(1856)年以降、親睦を深めた。

 だが、これで収まるほど不仲の歴史は浅くない。

 文久2(1862)年、備中松山藩主・板倉勝静の命を受け、中国・九州地方を探索した三嶋中洲の記録によると、岩国吉川家は、宗家に「頡頏(けっこう)(互いに屈しない)」する風潮があって「不和」。長府毛利家も、宗家に「随心せず独立する様子」であったことが記されている。

 また、慶応2(1866)年10月に、薩摩藩の五代才助(友厚)が同藩の桂久武に送った報告書には、下関滞在中の五代のもとに、宗家への不満をあらわにする長府の政府員数人が訪れ、薩摩藩との提携を求めたことが記されている。薩摩との提携はもちろん、長府毛利家が宗家に対抗するための策である。

 親戚(しんせき)同士であり、本支関係でもあったのだが、防長二州は、毛利宗家を中心とした一枚岩ではなかったのである。

 ◆いざとなれば…

 毛利家では「(毛利)元就公御遺言もあり、軽々しく天下に主として事を為さんとするは、かの関ケ原の非をまたするものなり」(三吉周亮日記中摘要)という教えがあった。西軍総大将に担がれ、敗戦後に大大名から防長二州に減封された関ヶ原の合戦を教訓に、天下に覇を唱えることは避けよ、ということだ。

 だが、幕末の毛利家は、末家の制止や再考の要請を宗家が聞きいれず、中央での政治活動を躍起になって展開する。それが不和を助長し、また、毛利家を存亡の危機に立たせる原因となった。

 ところが、危機的状況が一線を越えると、このまとまりのない防長二州の各藩(家)が、従前のいさかいを一旦傍(かたわ)らに置き、一致団結して事に当たる。

 例えば、第1次征長(長州征伐)の際、長府毛利家は征長軍に加わった隣国の小倉藩から、宗家との手切れを促された。が、迷うことなく一蹴している。日頃は、仲違いをしているとはいえ、「敵の敵」に与(くみ)するようなことはしなかったのである。

 とはいえ、ひと山越えると、またすぐに、いさかいが始まるのだが…。

 仲が良いやら、悪いやら。

                   ◇

【プロフィル】古城春樹

 こじょう・はるき 昭和43年、山口県下関市生まれ。島根大法文学部卒。民間企業などを経て、平成11年から市立長府博物館に勤務。22年、同館と市立東行記念館の館長。「三吉慎蔵と坂本龍馬」「長州と薩摩」などの展覧会を企画した。専門は幕末史。