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【今こそ知りたい幕末明治】(6)東の会津、西の小倉 守友隆 

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【今こそ知りたい幕末明治】
(6)東の会津、西の小倉 守友隆 

小倉藩と長州藩が講和約定書を交わした小郡御茶屋跡(山口市) 小倉藩と長州藩が講和約定書を交わした小郡御茶屋跡(山口市)

 ちょうど150年前の慶応3(1867)年1月23日、小倉藩士の生駒主税(ちから)らと、長州藩士の広沢兵助(真臣)、小田村素太郎(楫取素彦(かとりもとひこ))は周防国小郡(現山口市)の御茶屋(本陣)で会見した。講和約定書の交換がなされ、前年6月17日に始まった幕長戦争小倉口の戦いは終結した。

 幕府と長州藩の戦い「幕長戦争」は、大きく4つの戦線があったことから「四境戦争」とも呼ばれる。その内の一つ、小倉口の戦いでは、小倉藩が終始ほぼ単独で長州藩と交戦した。

 自ら居城を焼き、領地の一部を失いながらも、翌年の停戦まで孤軍奮闘した。

 なぜ小倉藩は長州藩と戦うことになったのか。それは小倉藩の成立過程に大きく起因する。

 現在の北九州市小倉北区に拠点を置いた豊前国小倉藩は、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦後、細川忠興が豊前一国と豊後二郡を与えられて成立した。寛永9(1632)年、細川氏が肥後国熊本に国替えとなり、小倉には小笠原忠真(ただざね)が入った。以後幕末まで続くことになる。

 忠真は、室町時代に信濃国守護となった小笠原氏の末裔(まつえい)である。そして徳川家と縁が深い。

 忠真の母、福姫(峯高(ほうこう)院)は、徳川家康の長男、信康の忘れ形見である。家康にとっては孫娘だ。従って、忠真は家康のひ孫に当たる。

 忠真は、慶長20(1615)年の大坂夏の陣で武功を立て、家康から「鬼孫」と称賛された。そうした血筋と経歴から着実に出世し、信濃国松本8万石の藩主から播磨国明石10万石を経て、豊前国15万石の藩主となった。

 15万石という石高は、大藩がひしめく九州においては少なく感じられるかもしれない。だが、全国の譜代大名の中では彦根藩の井伊家(最大30万石)に次いで第2位である。さらに、譜代筆頭の井伊家と同じく幕末まで国替えがなかった。井伊以外の徳川四天王の酒井、本多、榊原の各家も国替えされたことを考えると、いかに小倉藩小笠原家の役割が重要であったかを如実に示している。

 関ヶ原の後、九州は黒田家や細川家ら、戦功を立てた豊臣恩顧の外様大名がひしめく状態となった。西軍に回った島津家さえ所領安堵(あんど)された。

 この状態が変化するのが、家康のひ孫、小笠原忠真の小倉入りであった。忠真は甥(おい)と弟の領地も含めると旧細川領の内30万石を引き継いだ。徳川幕府の九州における拠点が小倉に誕生したのである。

 3代将軍家光は、忠真に小倉を与える際、「小倉は『九州ノ咽喉』であるから、有事の時には幕府に速やかに知らせるように」と指示した。

 小笠原忠真は九州の外様諸大名から「九州御目付」と目された。小笠原の歴代藩主が「九州探題」と呼ばれる所以(ゆえん)である。この言葉は室町時代初期にさかのぼる。南朝の勢力が盛んだった九州を治めようと、足利幕府が置いた役職が「九州探題」だった。

 重要なのは、幕末の小倉藩主が九州探題を自認していたことを示す史料が残っていることである。9代藩主の小笠原忠幹(ただよし)はその書に九州探題の落款を使用していた。幕府に与えられたものというより、自らが作らせ、用いたと推測される。

 「九州御目付」「九州探題」としての自負が、幕末の小倉藩の動向と命運を決定付けた。

 その歴史的経緯や立ち位置は、保科正之を藩祖とする会津藩に近い。保科正之は家康の孫であり、後々まで将軍家に忠義を尽くせという家訓を残した。

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【プロフィル】守友隆

 もりとも・たかし 昭和56年、山口県柳井市生まれ。九州大文学部卒、同大学院比較社会文化学府博士課程修了。博士(比較社会文化)。平成23年4月から北九州市立自然史・歴史博物館(いのちのたび博物館)学芸員。幕末を中心に北部九州の近世を、交通・情報の観点から調査研究する。