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【九州の礎を築いた群像】リョーユーパン編(2)マンハッタン

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【九州の礎を築いた群像】
リョーユーパン編(2)マンハッタン

店頭に並んだ40周年記念のプレミアムマンハッタン=明治屋ジャンボ市博多諸岡店 店頭に並んだ40周年記念のプレミアムマンハッタン=明治屋ジャンボ市博多諸岡店

 ■青春の味「作るのはわれわれだ」 受け継がれる製法と哲学

 入手困難さから「幻」と呼ばれたパンがある。

 商品名「マンハッタン」。サクサクの生地に、たっぷりかかったチョコレート。歯応えがあり、1個食べれば満腹感が広がる。

 昭和49年の発売と同時に、爆発的にヒットした。特に高校で売れた。遅くまで部活動に励む生徒が、空腹を満たそうと売店で争うように買った。売り切れが続出した。

 「幻のパンですね」。会社に届いた1通の手紙に、こう書かれていた。

 マンハッタンはいつしか、九州の「青春の味」となった。はやり廃りが激しい菓子パン業界で、マンハッタンは売れ続けた。300種類以上あるリョーユーパンの商品の中で、売り上げは常に上位にいる。

 商品誕生について、従業員にはこう伝わる。

 40年余り前。開発担当者が米ニューヨークのマンハッタンを訪れた。流行するドーナツを食べ、驚いた。サクサクした食感で、甘くておいしい。

 「あの味を再現したい」

 担当者は日本での販売を試みた。最初は菓子パンと同じように焼いたが、食感が違う。試行錯誤の末、独特の形と、揚げる製法にたどり着いた。

 ただ、実際のところ、そんなドーナツがニューヨークにあったのか…。当時を知る人は社内にはいない。始まりは霧の中だ。

                 × × ×

 平成26年、マンハッタンは誕生から40年を迎えた。

 「記念に特別なマンハッタンを作ろう!」

 年が明けてまもなく。営業部や企画広報部から、声が上がった。

 リョーユーパンは、年間300種もの新商品を開発する。アイデアが浮上すれば、担当者レベルでどんどん話を進める。経営陣のゴーサインを得るのは、一定の形が見えてから。現場の力が、次々と商品を生み出す。それがリョーユーパンの社風であり、強みだ。

 マンハッタン製造を担う唐津工場(佐賀県唐津市)の工場長、縄田隆輔(58)=現福岡工場長=に、本社から一本の電話が入った。

 「記念のマンハッタンか。大きな仕事がやってきたな」

 縄田は話に乗った。工場の従業員も同じだった。

 「マンハッタンは会社の顔だ。顔に泥を塗るわけにはいかない。お客さまに必ず受け入れられる商品にしよう」

 唐津工場生産課長の吉住正文(46)は気合を入れた。

 縄田も吉住も、マンハッタンを食べて育った。思い入れは強い。

 世間を見れば「プレミアム」が流行していた。第2次安倍政権が発足し、デフレ脱却を打ち出してから1年余り。「プチ贅沢(ぜいたく)」「ちょい上」の商品が売れた。これに乗らない手はない。

 「マンハッタンにもプレミアム感を出そう」。方針は決まった。縄田や吉住ら数人は、試作に入った。

 まず、生地をどうするかだった。

 マンハッタンは、パン生地とビスケット生地が2層になり、独特の食感を生み出す。40年の間に、食べやすいよう、生地は少しやわらかめになっていた。

 「よりカリッとさせて、元の食感に近づけたい」。縄田はそう思った。

 「クッキーのような食感ですかね」。吉住は、生地に使う小麦粉の配合を工夫した。薄力粉が多いと、クッキーに近くなる。

 しかし、何か違った。口の中で、生地がポロポロと崩れた。

 「イメージと違いますね」「やめた方がいいな」

 配合の変更は断念した。2層のうち、ビスケット生地を多くし、揚げ時間を15%長くすることで、カリッと感を出すことにした。

 チョコレートの選定にも悩んだ。

 「高級といえば、ビターか」。縄田はそう考えた。カカオ分70%を超えるような、コクのあるチョコが人気を集めていた。

 メーカーから15種類のチョコを取り寄せた。湯煎で溶かし、揚げたパンに付けて、何度も食べた。

 4つほどに絞り込み、営業や企画の担当者に試食してもらった。売れ筋商品を良く知る社員の評価は、甘くなかった。

 「もう少し、味に華やかさがほしいですね」

 「違いがよく分からないんですけど」

 遠慮ない言葉が浴びせられた。流行を取り入れたつもりだったが、方向性が違うのかもしれない。

 「どうすれば、プレミアムになるのか」。縄田も吉住も頭を抱えた。根本に戻り、「プレミアム」という言葉の意味やイメージから考え直した。

 それでも2人には自負があった。

 「マンハッタンは、唐津でしか作れない。記念のマンハッタンを作るのも、唐津のわれわれだ」

 かつて先輩からこんな話を聞いた。マンハッタンがあまりに売れたので、唐津以外の工場で作ろうとした。しかし、同じ生地やチョコを使っても、なぜか同じ味が出せなかった。

 生地の扱い方や、成形、揚げる時間など、工程の微妙な違いで、完成品に違いが出る。

 「ライバル企業も、マンハッタンと同じような商品を作ろうとしただろう。でもマンハッタンはリョーユーパンの、しかも唐津工場でしかできない」。2人はそう確信していた。

 しばらくたった頃、取引先からエアインチョコの話が入った。中に気泡が入ったチョコレートで、食感が軽くなる。

 試した。カリッとした生地に、口溶けのよいチョコがよく合った。営業や企画の社員も、異口同音に「これがいい」と言った。

 トッピングに、ナッツやクランチ、フルーツの顆粒(かりゅう)を用意し、3種類の「プレミアムマンハッタン」が完成した。会議で最終のゴーサインも出た。

                 × × ×

 発売日は平成26年10月1日に決まった。企画広報部の社員らは宣伝活動に力を入れた。発売前からマスコミの注目度は高かった。記念企画はマンハッタンの歴史とともに、新聞やテレビに取り上げられた。

 「九州人のソウルフード」。こう紹介された。

 だが発売を控えた大量生産の初日、とんでもないアクシデントが起きた。

 「何だこれは!」

 吉住は慌てた。唐津工場でブロック型のエアインチョコを、大型の機械で溶かしていた。タンクの上に、ぷくぷくと気泡が浮いている。エアインから「エア」が抜けていた。

 「まずいな」。しゃもじでチョコを混ぜた。若干、空気が入った気もしたが、商品として使えるものではなかった。

 前評判は高まっている。発売日を遅らせることなどできない。

 縄田は仕入れ先のメーカーに問い合わせた。溶かすときの温度が高く、攪拌(かくはん)時間が長いことが原因だと分かった。

 メーカーの教えを受け、エアインチョコをまとったマンハッタンの生産ラインが動き始めた。縄田はひとまず安堵(あんど)した。

 初日は6万個を製造した。翌日以降も、数万個を作り続けた。フル稼働だった。1時間に2700個を作ることもあった。

 プレミアムマンハッタンは3カ月限定で、九州や中四国、関西のスーパーやコンビニエンスストアに並んだ。通常の110円(当時)に対し、プレミアムは150円だった。

 プレミアムマンハッタンは、3カ月で100万個が売れた。

 縄田は工場の従業員を集めた。「初めての企画だったが問題なく終わることができた。みんな一生懸命やってくれた。ありがとう」。商品をみんなで作る喜びを、全員が実感した。

                 × × ×

 マンハッタンが誕生した昭和49年は、パン業界にとって苦難の年だった。

 前年の48(1973)年、第1次石油危機(オイルショック)が起きた。「狂乱物価」と呼ばれる激しいインフレと、原材料不足が襲ってきた。パンの原料となる小麦粉も、45%近く値上がりした。

 この難局に、リョーユーパンは積極策に出た。

 「ナンバーワン作戦」。社員個人や事業所でひとつ、優れたものを作り、その実績を重ね、九州のナンバーワン企業になることを掲げた。この勢いに押され、マンハッタンは売れに売れた。

 それから40年。プレミアムが誕生した。「喜んでもらえるおいしいパンを作る」。リョーユーパンの哲学は受け継がれてきた。

 マンハッタンは、長さ約30センチの棒状の生地を、職人が1個2~3秒の早さで編むようにひねって作る。1日に数万個を売る商品を一つ一つ。

 唐津工場では今日も、熟練の職人が生地をひねっている。(敬称略)