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【今こそ知りたい幕末明治】(5)佐賀・深川家 輝き放った60年 本間雄治氏 

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【今こそ知りたい幕末明治】
(5)佐賀・深川家 輝き放った60年 本間雄治氏 

明治末に撮影された深川造船所全景。現在の福岡県大川市若津の筑後川昇開橋温泉付近となる(大隈重信記念館所蔵) 明治末に撮影された深川造船所全景。現在の福岡県大川市若津の筑後川昇開橋温泉付近となる(大隈重信記念館所蔵)

 九州・山口をはじめ8県11市にまたがる23の構成資産から成り立つ「明治日本の産業革命遺産」が2015年、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録された。この遺産群とともに成長した企業集団の一つに、佐賀財閥「深川家」がある。

 「佐賀に深川あり」。こう呼ばれた。初代嘉一郎、二代文十、三代喜次郎は、明治・大正期に、九州ひいては西日本の海運業の発展に大きく寄与した。

 もともと嘉一郎は、銘酒「窓乃梅」古賀家の長男であった。佐賀藩御用達の豪商だった。

 後に、「深川」姓を購入し、分家した。明治4、5年頃に筑後川の対岸、福岡県三潴(みづま)郡若津港(現大川市若津)に拠点を置き、旧佐賀藩鍋島家の藩船を拝借・購入した。米廻船(かいせん)業から、近代海運業に大きく飛躍することになる

 ちなみに実業家、嘉一郎は文政12(1829)年生まれ、明治34(1901)年没である。

 特筆すべきは、明治9年7月創設の三井物産との関わりである。三井物産最初の業務は「大牟田三池の石炭」と「若津港九州米」の取り扱い(三井物産社業務日記及び決算書より)であり、この米積出の代理特約店として、若津の深川家は活躍したと推察する。

 深川商店は明治24年法人化し大川運輸株式会社となった。後に汽船と造船所に分離する。

 ◆世界遺産との縁

 その歩みをみると、深川家は明治18年頃、本格的に造船業を併設した。そして深川汽船、深川造船所と業容を拡大した。

 この過程で、現在各地に残る産業革命遺産群とさまざまな縁が生じた。それを記述すると、次のようになる。

 鹿児島・薩摩藩集成館にて使用の「竪削(たてけずり)盤」(オランダ製)を明治27年に購入、同時に鹿児島県内の航路にも就航した。長崎・三菱造船所(現三菱重工業)より船舶用エンジン・ボイラーの提供を受け、大川の木工技術で船体を製造し初期の造船をはかる。熊本・三角港では深川汽船が若津大阪線、若津東京線の寄港地として明治30年代より業務開始する。

 福岡・官営八幡製鉄所には社内船を製造納入、また三池炭鉱には各種炭鉱用機械を納め、三池港の浚渫(しゅんせつ)船の修理等を受注した。

 最後に佐賀・三重津海軍所との関連を挙げよう。

 深川造船所構内に明治30年頃、洋式石造の「ドライドック」(1300総トン迄修理)を設置した。これは世界文化遺産の登録構成要因となった幕末・佐賀藩の「ドライドック」の流れを組む。さらに明治38年には、海軍所を継承した佐賀県立商船学校の実習工場として、逓信省の指定を受けた。

 また、造船所では蒸気機関車、客車、貨物車などを製造、九州一円に販売した。九州の鉄道事業にも貢献した。

 ◆九州から海外へ

 深川家の目は海外にも向いた。

 三代目喜次郎は、満鉄海運とのチャーター契約による大連~上海・香港線、大連~シンガポール線に就航した。「百貨店玉屋」の田中丸家とトラック・ヤップ南洋航路傭船(ようせん)契約、未達であったが「インド洋航路」も画策した。

 深川家は神戸港など関西地区にも第2の拠点を置いていたが、不況の荒波によって大正末期、深川家は消滅していった。

 深川家が輝きを放ったのは、60年間ほどだった。それでも近代日本に果たした功績は、その後も残った八幡製鉄所(現新日鉄住金)や三井物産に匹敵するものだったといえる。

                  ◇

【プロフィル】本間雄治

 福岡、佐賀両県の明治大正の実業家の歴史などを研究する。昭和24年生まれ。佐賀大学卒、民間企業を経て平成17年からNPO法人「大川未来塾」(福岡県大川市)で、筑後川水系の活動に従事、18年にNPO法人「みなくるSAGA」(佐賀市)を設立。佐賀市在住。

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