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【今こそ知りたい幕末明治】(4)維新の策源地・古都太宰府 竹川克幸氏

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【今こそ知りたい幕末明治】
(4)維新の策源地・古都太宰府 竹川克幸氏

太宰府天満宮延寿王院前にある七卿西竄記念碑 太宰府天満宮延寿王院前にある七卿西竄記念碑

 まほろばの地・太宰府は古来、「遠(とお)の朝廷(みかど)」「筑紫万葉の地」「天下之一都会」などと謳われた。

 古代の行政機関である大宰府政庁跡をはじめ、古代山城の水城跡、大野城跡、観世音寺・戒壇院、学問の神様・天神様菅原道真公ゆかりの太宰府天満宮など、日本遺産にも選ばれた数々の史跡・名所を有し、年間約900万人が訪れる観光都市でもある。みなさんも合格祈願や観光などで、一度は訪れたことがあるだろう。

 太宰府の地は幕末、政局の表舞台に登場する。その主役は、「五卿」と呼ばれる尊皇攘夷派の5人の公卿(くぎょう)だ。後の明治政府の太政大臣の三条実美(さねとみ)をはじめ、三条西季知(にしすえとも)、東久世通禧(みちとみ)、壬生(みぶ)基修(もとなが)、四条隆謌(たかうた)。彼らの都落ちから筑前国太宰府への下向、いわゆる「五卿の西遷」である。

 五卿は長州藩の政治工作に加担し、文久3(1863)年8月18日の政変で京都・朝廷を追放され、長州へと落ち延びた(七卿落ち)。その後、長州征伐の講和条件として、福岡藩家老の加藤司書や月形洗蔵、早川勇(養敬)ら、福岡藩の勤王派(筑前勤王党)や西郷隆盛らの調停・周旋もあり、慶応元(1865)年2月に福岡藩領、太宰府へと移転した。

 月形らは五卿の西遷を菅原道真公の左遷の故事になぞらえ、「今の下向の悲劇も、後に栄光の日になるであろう」と説いたという。

 太宰府で五卿は、安楽寺天満宮(現在の太宰府天満宮)の宿坊「延寿王院」に移る。延寿王院院主の大鳥居信全が、三条実美の父・実萬と、いとこという縁があった。そのまま、慶応3(1867)年「王政復古」の後に帰洛・政治復帰するまでの約3年間を太宰府で過ごした。

 延寿王院(非公開)は現在、太宰府天満宮宮司、西高辻家の邸宅となっている。そこには五卿西遷70周年祭を記念した「五卿遺蹟」の碑が建立されている。

 また五卿応接の功で後に「廃仏毀釈」の難を逃れた延寿王院の山門前には、「七卿西竄(せいざん)記念碑」もある。西竄は「西に逃れた」という意味を持つ。

 太宰府での五卿は福岡、薩摩、熊本、久留米、佐賀の5藩へ「お預け」され、延寿王院へ幽閉の身分だった。「五人衆」と呼ばれ、罪人扱いではあったが、公卿ということで一定の饗応(きょうおう)、応接は受けたという。

 彼らは、地元の有力者や文化人と積極的に交流を図り、支援者や支持者を増やしていった。

 彼らのもとには多くの志士が訪れた。

 五卿随行の中岡慎太郎(変名大山彦太郎・石川清之助)や土方久元(楠左衛門)ら土佐藩脱藩士はもちろん、警衛にあたった薩摩藩の西郷隆盛、吉井幸輔(友実)、大山格之助(綱良)らがいた。

 さらに長州藩士の小田村伊之助(後の群馬県令、楫取(かとり)素彦)、桂小五郎(木戸孝允)、伊藤俊輔(博文)、勤皇歌人の野村望東尼(もとに)、五卿に「天下の奇説家」と言わしめた坂本龍馬も太宰府に来た。情報収集や意見交換に奔走し、「薩長和解」いわゆる「薩長同盟(連合)」に向けての事前交渉などを図った。こうした経緯から、後に太宰府は「明治維新の策源地」と称された。

 筑前国に一時期亡命した、高杉晋作も太宰府を訪れたという伝承も残る。太宰府天満宮の大型バス駐車場にほど近い場所には、晋作が匿われていたという屋敷の跡もある。

 ただ、太宰府を訪れる多くの人々が、明治維新ゆかりの地であることを、どれだけ知っているのだろうかと、不思議な気持ちになる。

 私は福岡県出身だ。九州、特に故郷・福岡を中心に、明治維新にまつわる歴史やゆかりの地、明治維新に向けて国事周旋に奔走した志士・人物の秘話などを紹介したい。明治維新とは、日本にとって何であったかを考えることにつながるだろう。                   ◇

【プロフィル】たけがわ・かつゆき

 昭和48年、福岡県飯塚市生まれ。鹿児島大、同大学院修士課程、九州大大学院博士課程などを経て、平成28年から日本経済大学経済学科専任講師。専門は日本近世史と九州の郷土史。特に幕末の太宰府と五卿の西遷、志士の国事周旋の旅などを調査研究。著書(共編著)に「アクロス福岡文化誌9福岡県の幕末維新」(海鳥社)など。