産経ニュース

【歴史のささやき】五代家が模写した世界地図 志學館大教授・原口泉氏

地方 地方

記事詳細

更新

【歴史のささやき】
五代家が模写した世界地図 志學館大教授・原口泉氏

鹿児島市長田町の五代家跡地。市が五代友厚の生誕地として整備している 鹿児島市長田町の五代家跡地。市が五代友厚の生誕地として整備している

 幕末日本でもっとも開明的藩主は島津斉彬で、家臣が五代友厚であることに異論はないだろう。しかし、2人には誤伝が多い。それは、島津斉彬が友厚の父、秀堯に世界地図の模写を命じたところ、14歳の友厚が模写を申し出、2枚作成し、1枚は自分用としたというエピソードである。

 しかし、今年9月3日、五代秀堯の長男、徳夫(友健)の子孫である吉崎敬三氏(大阪府)が、鹿児島県歴史資料センター黎明館(鹿児島市)に、秀堯が模写した「新訂萬國全圖(図)」を寄託された。

 秀堯の書き込みにより、友健と妻やすが手伝い、天保10(1839)年9月に完成したことがわかった。このとき徳助(友厚)は4歳であり、模写は無理だろう。秀堯は友健が1カ月かけて模写し、その出来栄えは大人も顔負けだと褒めている。わが子を「奇童」(神童)と12月に記している。

 この世界地図は、幕府天文方の高橋景保が文化7(1810)年に作成した「新訂萬國全圖」を、薩摩藩の儒学者で唐通事(通訳)の石塚催高が所有していたものである。景保は従来の地図に比べ南半球のオーストラリアなどが正確に書き加えられたと凡例に記している。縦1メートル、横2メートルもある大きなもので、四隅の世界地図は妻やすが模写した。つまり、五代家総出で模写したことになる。

 秀堯はこのとき、藩命により、「三国名勝図会」という地理書を総裁として編纂中だった。全60巻が完成したのは、天保14(1843)年のこと。翌、弘化元(1844)年、琉球に来航したフランス艦が通信、貿易、布教を要求したとき、秀堯は「琉球秘策」を著し、フランスの要求には、和をもって当たり、貿易を進めるべきだと主張している。

 このような開明的な父をもつ徳助(友厚)が、藩主、島津斉彬の側近くに仕えるようになり、斉彬自身から「才助」という名を頂いたのもうなずける。斉彬没後、友厚が薩摩藩の開明路線をリードしたのは周知のところだが、友厚を生み出した五代家のようないわば「文化官僚」の人脈にも注目すべきである。

 模写に関わった母やすの実家の本田家は、薩摩藩の本格的地理書「薩藩名勝志」を著した本田親孚が出た家である。秀堯と同じように儒学者で記録奉行を勤めている。

 また、本田家は薩摩藩最大の歴史書「薩藩旧記雑録」の編纂に携わった伊地知季安、季通父子とも姻戚である。季安も記録奉行を勤めている。五代家、本田家、伊地知家など記録奉行を勤める家は、丹羽謙治・鹿児島大学教授が提起する「薩摩藩文化官僚」といってよい。(丹羽謙治、原口泉他編の『薩摩藩文化官僚の幕末・明治』2005年、岩田書院刊)

 薩摩藩の学問のルーツは15世紀末、桂庵玄樹によって、わが国はじめて、朱子学の新注本「大学章句」等が刊行されたことにはじまる。

 近世になって学統が、南浦文之、泊如竹に受け継がれ、薩南学派と呼ばれる。ともかく薩摩藩は「武の国」でもあるが、案外と「文の国」でもあったのである。

 また、斉彬の前藩主、斉興時代から西洋兵制を導入しており、開明路線は斉彬に始まったことではない。開明的なものはすべて斉彬からはじまったというのも誤伝だ。同じように棒踊り、太鼓踊りなどの民俗芸能がすべて戦国武将、島津義弘の朝鮮の役の凱旋記念から始まったというのも、正確ではあるまい。

 斉興と斉彬の時代の大きな差は、天保時代は薩摩藩モンロー主義であり、斉彬の安政時代は、対外危機を幕藩体制全体の問題と捉えていたことであろう。