産経ニュース

【九州の礎を築いた群像】辛子めんたいこ編(4)後発組

地方 地方

記事詳細

更新

【九州の礎を築いた群像】
辛子めんたいこ編(4)後発組

佐々木吉夫氏が作った屋台。銀座で明太子を売り歩いた 佐々木吉夫氏が作った屋台。銀座で明太子を売り歩いた

 ■老舗・三越をつかんだ銀座の屋台 巧みな手腕で存在感

 昭和54年10月。東京・銀座の歓楽街に、ひと際目立つ屋台が誕生した。

 あんどんに「めんたい」の文字が輝く。スピーカーから「博多どんたく」の囃子(はやし)が流れる。周辺の飲食店で働くホステスやネオン街を行く男性客が、次々と辛子明太子を買い求めた。

 屋台を出したのは「福さ屋」の創業者、佐々木吉夫(83)=現会長=だった。

 「福さ屋」は後発企業だ。地元・福岡では数ある先発メーカーに埋もれた。

 「東京に活路を見いだすんだ!」

 佐々木は有楽町に店を構え、銀座のクラブというクラブにチラシを配った。ホステスにはおまけもした。その効果は如実に表れた。店の評判は、あっという間に広がった。

 その噂を聞きつけ、一人の男が屋台を訪れた。老舗百貨店・三越を率いる社長、岡田茂(1914~1995)だった。銀座店店長時代の46年、日本マクドナルド第1号店をテナント入りさせるなど、百貨店の常識を打ち壊した。「流通の革命児」と言われた。

 夜道に明るく光るあんどんに、聞き慣れない祭り囃子。取り扱う商品は福岡特産品の明太子。何より、政財界の要人が集まる街で、話題になっていた。

 「おい。これをうちで扱うぞ。交渉してこい」

 岡田は明太子を受け取ると、随行していた銀座店の食品課長、田中吉之助にこう命じた。

 「他の百貨店とどう差別化するか考えろ」。そう言い続けた岡田は、商機ととらえたのだった。

 翌日、田中は佐々木を訪れた。

 佐々木にとっても願ってもない話だった。三越は日本を代表する百貨店だ。「三越取り扱い」というブランドは、流通業界では高い評判となる。

 ただ三越側は、佐々木に屋台営業をやめるよう求めた。百貨店のすぐそばに屋台があっては、明太子の売り上げに響く。何より、「屋台で売っているものと同じ商品を、老舗百貨店が取り扱うのか」という評判を恐れたのだろう。

 佐々木はうなずかなった。巨大デパートとは比ぶべくもない小さな屋台だ。それでも、屋台を手放すことは、夜の銀座の売り上げを手放すことになる。

 両者の交渉は平行線をたどった。

 「このままじゃ、らちがあかない。実を取ろう」。佐々木は思い切った提案をした。

 「田中さん。銀座店だけでなく、三越全店でいつでも販売して構わないと確約してください。そうすれば、屋台は引き上げます」

 田中は、この条件をのんだ。「銀座で話題の福さ屋の辛子明太子を扱え」という岡田の厳命もあった。

 銀座三越に「福さ屋 辛子めんたい」の大きな懸垂幕がかかった。佐々木が屋台を作ってから1カ月余りだった。

 その後、ほかの百貨店との出品交渉が、スムーズに進んだことは言うまでもない。「福さ屋」ブランドは、東京から本場・福岡に“逆輸入”された。

                 × × ×

 辛子明太子は「博多商人」の奮闘で、全国区の知名度を得た。だが、福さ屋を創業した佐々木は北海道・礼文島出身で、国会議員秘書という異色の経歴の持ち主だった。

 中央大卒業後、社会党=現社民党=の議員秘書に採用された。41年、国鉄労働組合出身で福岡選出の参議院議員、小柳勇(1912~2005)の秘書として、福岡の地を初めて踏んだ。佐々木の妻は小柳の娘だった。

 秘書でありながら、実業家としての片鱗(へんりん)も見せた。

 小柳の支持組織の開拓に合わせて、自営業者の保険・年金の申請などのアドバイスを請け負うようになった。「中小企業事務協会」として組織化した。経営者が夜逃げした運送会社の立て直しを任されたこともあった。

 佐々木は49年、参院議員選挙で公職選挙法違反で検挙された。容疑は買収。選挙期間中に1285円分の中華料理をおごったことが露見した。

 佐々木はもともと政治家となり、故郷・礼文島の発展に寄与するのが夢だった。だが、有罪判決で3年間の公民権停止となった。

 「もう政治家の道は難しいだろう。できることをやるしかない」

 失意の佐々木は、ビジネスの道を歩み始めた。

 そんな佐々木のもとに、博多駅構内の銭湯再建話が舞い込んだ。

 従来、東京と九州の移動は寝台列車が担った。山陽線の非電化区間は蒸気機関車が引っ張る。博多駅に到着したビジネスマンの多くは、駅構内の銭湯で、ススや汗を流した。

 だが50年、山陽新幹線が博多駅まで延伸し、銭湯の需要は急速にしぼんだ。経営は傾いたのだった。

 「銭湯での立て直しは無理だ。これからは小売りだ」。佐々木は確信した。

 地場スーパーチェーン、サニーの実質的創業者、松本金也(1919~2008)らの協力を得て、スーパー設立の準備を進めた。

 一介の秘書の手元に開業資金があるわけがない。松本の支援に加え、旧知の労組など支援組織や中小企業などを回った。

 といっても、単に頭を下げたのではない。

 「今度、博多駅前にスーパーを開きます。この金券を持ってきていただいたら、お買い物ができます」

 新たに開くスーパーで使える金券を“販売”し、開業資金を確保した。

 資金調達と店舗の宣伝、開店後の売り上げ確保を兼ねた「一石三鳥」の作戦だった。

 年中無休、午前9時から午後9時まで営業した魚・肉・野菜・果物に特化した食品店「博多ステーションフード」は大当たりした。

 そして佐々木は53年、福さ屋を開業した。

                  × × ×

 三越に続き、佐々木は空港に着目した。

 福さ屋を開業した年、成田空港が開港した。航空旅客は右肩上がりが予想された。

 ただ、空港は2大航空会社、日本航空と全日本空輸が強い影響力を持つ。「三越納入」というブランドすら通用しない世界だった。

 佐々木は一計を案じた。「ジャンボジェット」の愛称で親しまれたボーイング747に目を付けた。

 「わが社が全額負担して、博多駅の筑紫口の北側にジャンボジェットの模型を設置します。いいPRになります。その代わり空港の売店に、明太子を置かせてもらえませんか?」

 59年、佐々木は日航と全日空の担当者に、それぞれ持ち掛けた。

 激しい競争を繰り広げる日航と全日空にとって、広告費用を、無関係の企業が負担してくれるのだ。特に日航側が興味を示した。

 模型設置の費用は5千万円程度と想定された。福さ屋にとって、空港での営業権が得られるなら、高い買い物ではない。

 ただ、計画は頓挫した。模型の設置予定地だった場所に、ホテル建設計画が持ち上がったのだ。

 「申し訳ありません。提案していた広告が設置できなくなってしまいました」

 佐々木は日航福岡支店に足を運び、平身低頭でわび続けた。見かねた担当者は、売店事業などを担うグループ会社「日航商事」の福岡支店長を佐々木に紹介した。

 「話は聞いています。いろいろと考えてもらったようですね。まぁ、売り場の1列だけなら構いませんよ」

 福さ屋の明太子は、空港売店の小さなスペースを獲得した。

 「空港に置けるようになりました。代金と品物は当日、空港でいただくので、予約お願いします!」

 佐々木は営業攻勢をかけた。ターゲットは、東京出張が頻繁な大手企業の支店や行政、主要な労働組合だった。秘書時代に見知った面々だ。予約は相次いだ。明太子の中で、売り上げはトップクラスになった。

 日航側は驚いた。わずかなスペースしかないのに、「福さ屋」を指名買いする客が相次いだのだ。福さ屋のスペースは徐々に増えた。

 後発組の福さ屋は、巧みな営業手法で存在感を高めた。(敬称略)