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【九州の礎を築いた群像】三井松島産業編(7)総合商社へ

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【九州の礎を築いた群像】
三井松島産業編(7)総合商社へ

三井松島産業誕生を記念したパーティーであいさつする中岡義人氏(右)と武冨敏治氏 三井松島産業誕生を記念したパーティーであいさつする中岡義人氏(右)と武冨敏治氏

 ■「望まれることは男冥利に尽きる」 ソ連炭輸入 苦情処理に奔走

 1945(昭和20)年8月15日正午。武冨敏治(1910~2003)=後に三井松島産業会長=は、自宅でラジオに耳を傾けた。

 「ポツダム宣言を受諾するという内容なのか?」。雑音が多く、よく聞き取れなかった。

 武冨は福岡県稲築町(現嘉麻市)にある三井鉱山(現日本コークス工業)の山野鉱業所に勤めていた。午後3時、会社に社員が集められた。

 「本当に日本は負けたのだろうか」「そうだ。朝から一機の飛行機も飛んでいないじゃないか」

 全員が放心状態だった。

 戦時中、政府や軍は石炭の増産を推進した。「飛行機も軍艦も弾丸も石炭から」が標語だった。

 だが終戦後も石炭重視は変わらなかった。連合国軍総司令部(GHQ)は、日本の復興に向け、鉄鋼と石炭産業に資材・資金を重点的に投入する「傾斜生産方式」を導入した。

 「戦後の復興は、まず石炭生産から」。これが新たな標語となった。武冨ら山野鉱業所も、祖国立て直しへ、増産に汗を流した。

 石炭を掘るには、従業員に食べさせなければならない。炭鉱には特別配給もあったが、足りなかった。

 「4千人の胃袋が待っている」。武冨はトラックの助手席に乗り、買い出し部隊の陣頭指揮を執った。取り締まりをかいくぐり、闇市でも食糧を求めた。

 武冨はヤマに生まれ、ヤマに育った。父は三菱上山田炭鉱(現嘉麻市)の納屋頭だった。納屋頭とは、現場作業員をまとめ上げる現場の総責任者だ。

 その後、旧制福岡高校、京都帝国大学、三井鉱山とエリートコースをたどるが、ヤマで働く人々の気質を肌で知っていた。

 口うるさい炭鉱作業員も、武冨を「腹を割って話せる人間だ」と信頼した。

 そんな武冨に岐路が訪れる。松島炭鉱(現三井松島産業)への転籍だった。

 松島炭鉱は、1913(大正2)年、三井鉱山の出資を受けて発足した。戦前は三井財閥の一員として、長崎で石炭を掘った。

 終戦からまもなく、GHQは財閥解体指令を出す。松島炭鉱も三井との関係が断たれ、独立系企業として再スタートした。

 その松島炭鉱に、山野鉱業所時代の上司がいた。上司は武冨に松島炭鉱に来るよう要請した。

 武冨は三井鉱山で順当に昇進していた。友好関係にあるとはいえ、財閥から切り離された会社に移ることは、優良企業である三井鉱山での立場、将来を捨てることになる。

 そんなとき、「士は己を知る者のために死す」という言葉が浮かんだ。古代中国で、かつての主君の仇討ちに命を投げ出した刺客の言葉だ。

 「『来てくれ』と望まれることは男冥利(みょうり)に尽きる」。1957年、武冨は松島への転身を決意した。

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 松島炭鉱は長崎の離島、大島で石炭を掘っていた。武冨は、総務部次長を経て大島炭鉱の責任者である鉱業所長となった。

 「最も大事なのは現場だ」。武冨は毎週水曜日、作業員と一緒に坑道に入った。現場を知り、作業員と同じ言葉で会話できるように努めた。

 ただ、エネルギー全体を見渡せば、石炭から石油への転換が進んでいた。炭鉱が次から次へと消え、石炭産業は急速に縮小した。

 松島炭鉱も、出炭量が減少した大島の閉山と、池島炭鉱への集中を決めた。

 1970年5月、武冨は社長となった。この月に大島は閉山となった。困難な時期の就任だった。

 「国内の石炭はいつか終わりを迎える。石炭を含め、さまざまな物を取り扱う“総合商社”に生まれ変わるしかない」

 武冨は経営の多角化を目指した。

 社名を松島興産に変更し、石炭部門を子会社に分離した。炭鉱資材・機械の仕入れ販売、不動産、スーパー業を始めた。

 とはいえ、石炭採掘一筋で歩んできた会社だ。石炭事業以外のノウハウはない。売り上げの7割を石炭に依存する状態が続いた。

 武冨は古巣を訪ねた。三井鉱山会長の有吉新吾(1911~2004)に会うためだった。

 有吉は旧制高校、大学の同級生であり、同じ三井鉱山で働いた。まさに「知己」だった。

 「三井鉱山の適当な事業で、松島興産の柱になれるような事業があれば、考えてくれないか」

 要するに、「三井鉱山の何らかの事業分野・子会社を、松島興産に欲しい」という話だった。

 有吉の脳裏に「三井鉱山建材販売」の名が浮上した。セメントや生コンクリート、建材の仕入れ販売を行っていた。三井鉱山最大の子会社だった。

 松島側にとって申し分はなく、三井鉱山側にとっても松島興産の販路を新たに使えるメリットがあった。

 武冨、有吉両者は水面下で合意した。

 だが、両社で働く人々からは、懸念と反発の声が沸き起こった。

 「セメントの事なんか知らない。本業が違う会社となぜ合併するのか。三井鉱山の傘下に入るのか」「(武冨)会長が三井鉱山を懐かしんでいるだけではないか」

 松島側の役員は不信感を抱いた。

 三井鉱山建材販売からも「何で三井を離れて、将来どうなるかも分からない九州の会社に合併させられるのか」と不満が出た。

 同級生同士で話を進めたことが、疑心暗鬼を生んでいた。

 武冨は説得に奔走した。「合併を成功させることが、松島興産の総合商社としての発展につながる」と訴えた。

 何とか双方、社内の合意を取りつけた。

 1983(昭和58)年4月1日、松島興産が三井鉱山建材販売を吸収する形で「三井松島産業」が誕生した。海外でも通用する「三井」の名を社名に冠した。

 社長には三井鉱山専務の中岡義人(1919~2013)が就き、武冨は会長となった。両社のわだかまりを解消しようというトップ人事だった。

 85年3月、福岡市中央区に新社屋を建設した。11階には美しい中庭が配置された。向かいの舞鶴公園には桜が満開だった。武冨は喜びをかみしめた。

 だが、武冨は合併だけに集中していたのではない。もう一つの悲願、海外進出への足がかりを作っていた。

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 1970年代の2度の石油危機を経て、三菱商事などの大手商社は、米国や豪州からの石炭輸入を拡大していた。

 武冨と中岡は、三井松島産業も輸入事業に着手すべきだと考えた。

 「石炭を分けてもらえませんか」

 燃料部の山本義隆(66)=現三井松島リソーシス顧問=は海外炭を扱う商社に、頭を下げて回った。商社から海外炭を譲り受け、自社の顧客に販売する「2次問屋」になろうとしたのだ。

 「おたくの顧客には、何トン売れるんですか?」

 「ユーザーに確認させてください」

 「確約できないならだめですね」

 けんもほろろに断られることもあった。それでも、歯を食いしばって販売実績をつくろうとした。

 その中で、ソ連炭を扱う小さな貿易会社が見つかった。ロシア中部のクズネッツ炭田の石炭を売らないかと持ち掛けられた。

 共産圏のソ連は、炭鉱は国営だった。特殊な商社を通じた取引に不安はあった。

 それでも、ソ連国内最大級のクズネッツ炭田を見た社員は、この炭田なら安定供給ができると太鼓判を押した。

 三井松島産業は1986年、ソ連炭の輸入を開始した。その前年、ソ連共産党書記長にミハイル・ゴルバチョフが就任し、ペレストロイカ(改革)を打ち出していた。

 山本らはソ連炭の販売先の確保も進めた。

 セメント会社が興味を示した。セメントは製造の過程で石炭を使う。ソ連炭は、豪州炭などに比べて1~2割安かった。7社程度の販売先を確保した。

 しかし、トラブル続きだった。

 「石炭を買ったんだ! スクラップを買ったんじゃないぞ」

 燃料部の国分徹也(55)=現エネルギー事業本部石炭部長=は、セメント工場に呼びつけられ、怒鳴られた。

 石炭はシベリア鉄道と船を使い、2週間ほどかけて、日本に運ばれる。

 この過程で、石炭の中に石や鉄くずなど異物が混入していたのだ。鉄道駅で貨物列車にゴミが投げ込まれることもあった。

 国分は、異物の写真を撮影し、商社を通じて、ソ連側に改善を要求した。

 ソ連側の積みだし港に、石炭を運ぶ貨物列車が予定通り来ないこともあった。

 「情報が入ってこないんです」。山本や国分は冷や汗を流しながら、顧客を回った。いきり立つ20人に、頭を下げたこともあった。

 国分の仕事の7割はクレーム処理だった。

 改善に向けて国分や山本はクズネッツまで出向き、関係者と協議した。

 関係者からは、KGB(国家保安委員会)が来たと聞いた。「日本人が来ただろう。何を話していたのか」と追及したという。「やはり、共産国はおっかないな」。山本は肝が冷えた。

 ただ、お国柄は違っても、現場の作業員とは心が通じ合った。ウオツカを飲みながら、身ぶり手ぶりでヤマのことを話した。危険が伴うヤマで、炭鉱員は人とのつながりを大切にする。その文化は、筑豊も長崎も、そしてソ連も共通していた。

 厳しい環境は、人を育てもする。常に不安が付きまとう取引を続ける中で、社員一人一人が自信を付けた。何より大切な情報収集力を磨いた。この自信と能力で、豪州やインドネシアの炭鉱にも進出し、グローバル企業への道を歩む。

 武冨は三井松島産業の成長に眼を細めながら、1987年、相談役を退いた。(敬称略)