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【九州の礎を築いた群像】三井松島産業編(6)創業

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【九州の礎を築いた群像】
三井松島産業編(6)創業

古賀春一氏 古賀春一氏

 ■「三菱が断念したヤマを掘る」 “不運”の快男児、古賀春一

 五島灘に浮かぶ長崎・松島。1905(明治38)年、古賀春一(1882~1951)=三井松島産業初代代表取締役=が、この島に立っていた。弱冠22歳だった。

 「あの三菱が採炭を断念した難しい島だ。しかし、よい石炭が出る。古賀家を立て直すために、必ず事業を成功させる」

 松島は西彼杵(そのぎ)半島の沖1キロにある。遠見岳を抱く周囲16キロの島は江戸時代、捕鯨基地として栄えた。住民は小規模に石炭を掘り、生活に利用した。

 明治に入り、石炭は近代日本の原動力となった。蒸気機関の燃料に加え、製鉄に欠かせないからだ。各地でヤマの開発が盛んになった。

 福岡・筑豊では、貝島太助(1845~1916)、麻生太吉(1857~1933)、安川敬一郎(1849~1934)らが「炭鉱王」として名を上げた。

 各社がヤマの獲得競争を繰り広げる中、三菱が1885年、松島の地質調査に乗り出した。三菱は土佐藩出身の岩崎弥(彌)太郎(1835~1885)の下で、巨大財閥として急速に発展していた。

 三菱は翌86年、採炭に着手した。しかし、深さ74メートルに達したとき、多量の海水が湧出した。掘り進めることができず、わずか3年で撤退した。

 その鉱区を佐賀の実業家、古賀善兵衛が買った。

 呉服商だった古賀家は維新後、銀行業を始めた。善兵衛は古賀銀行を、九州五大銀行の一つにまで成長させた。北方村(現佐賀県武雄市)で経営した炭鉱の利益も、銀行の成長に大きく寄与した。

 春一は、その善兵衛の養子だった。

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 春一は、佐賀県中原村(現みやき町)に生まれた。幼いころから成績優秀で、教師らは将来を嘱望した。

 しかし、中学のとき実家がつぶれ、進学の道は閉ざされた。

 「春一の才能を、そのままにしておくのはもったいない」。校長から春一のことを聞いた善兵衛は、春一を子弟の家庭教師として招いた。

 春一は、気立てがよく誰からも好かれた。善兵衛は春一を養子とし、東京高等商業学校(現一橋大)に進学させた。春一は善兵衛の恩を胸に刻んだ。

 春一が東京生活を送っているころ、善兵衛は松島の採炭に着手した。北方炭鉱の採炭が終わりに近づいたこともあり、古賀家の存亡を、新天地に賭けた。

 善兵衛はその責任者として春一を指名した。東京から呼び戻され、1905年、古賀鉱業社の社長として松島に乗り込んだ。

 春一は、三菱が採掘を断念した場所に狙いを定めた。多量の出水にどう対処するかが問題だった。

 「天下の三菱でさえ採炭を断念したのに、佐賀の一銀行家の古賀に、松島の開発ができるのか」

 島民はささやき合った。

 春一は、北方炭鉱の資材と人材を松島に投入し、第1坑を掘った。しかし、経営を軌道に乗せるには、一層の採掘が必要だった。

 「出水の多い炭鉱で、採炭量を上げるには、優秀な技術者の力が必要だ」

 春一は一人の技師に着目した。筑豊の炭鉱王、安川敬一郎の秘蔵技師、頼尊淵之助(らいそん・ふちのすけ)だった。春一は、三顧の礼で、頼尊を招いた。

 春一は、頼尊の住まいとして、景色のよい場所を用意した。一方自身は、破れた服を着て、坑道入り口近くの小屋に住んだ。

 頼尊は凄腕の技術者だった。作業員と日夜苦闘し、第2坑、第3坑と次々に掘り、採炭を始めた。

 出炭量の増加に加え、見込み通り質もよかった。光輝く「黒いダイヤ」の松島炭は、日本最良炭の一つに挙げられた。

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 この松島と春一に、三井財閥が目を向けた。

 三井は当時、三菱と全国で炭鉱買収競争を繰り広げていた。三菱が1881年、長崎の高島炭坑を買収すれば、三井は88年に福岡、熊本にまたがる三池を獲得した。

 その三井は、長崎に足がかりが欲しかった。理由は2つあった。

 一つの理由は、長崎の国際性だった。長崎は国内有数の貿易港であり、三池の石炭を上海、香港などへ輸出するのに適していた。

 もう一つの理由は、長崎が三菱ゆかりの土地だったからだ。三菱創業者の弥太郎は幕末から長崎で商売した。弥太郎死後に三菱は、官有長崎造船所の払い下げを受けた。

 三井は江戸時代前期からの歴史をもつ。これに対し三菱は、維新後の“成り上がり”だ。そのライバル三菱の牙城・長崎に、くさびを打ち込みたかった。

 「三菱高島に対抗できる炭鉱が必要だ」

 三井は古賀に近づいた。仲介に佐賀出身で首相を務めた大隈重信(1838~1922)の存在が見え隠れする。大隈は古賀家と信親交が厚く、また、旧三井物産設立に一役果たした。

 「三井の資本を得れば、さらに炭鉱開発を推進できる。それが日本の発展にもつながる」。春一はこう考えたに違いない。

 1913(大正2)年1月25日、三井と古賀は、松島炭鉱社(現三井松島産業)を設立した。出資比率は古賀側が40%、三井側が60%とした。

 同日の設立総会で、春一と頼尊が松島炭鉱の代表取締役に就任した。

 松島の石炭は、旧三井物産を通じて全国各地に販売されるようになった。海外輸出も行った。香港やシンガポール、上海へ積み出された。

 翌14年に第一次世界大戦が勃発し、石炭市況は活況を呈した。会社は第4坑の開坑に着手した。セメントを使って地盤を強化するという米国の工法を、日本で初めて導入した。

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 三井の後ろ盾を得た春一は、全国の炭鉱に手を伸ばした。

 松島炭鉱設立の前後から、磯原(茨城県)や常磐(福島県)、本山(山口県)など各炭鉱のヤマに進出した。三井の出資も仰ぎ、大日本炭鉱を設立し、社長としてこうしたヤマの陣頭指揮を取った。

 九州では、長崎の電力会社「長崎電灯」の経営権を取得した。さらに福岡の九州電灯鉄道にも出資した。後の九州電力、西日本鉄道などの源流となる会社だ。

 この出資を通じて、福沢諭吉の養子で「日本の電力王」と称された福沢桃介(ももすけ)(1868~1938)や、長崎・壱岐出身の松永安左ヱ門(1875~1971)の知遇を得た。

 第2次大隈内閣(1914~1916年)の時には、全国を代表する経営者300人の中に選ばれた。中高年の経営者に交じった春一は「瀟洒颯爽(しょうしゃさっそう)たる一青年」と有名になった。「気鋭の礦(鉱)業家」と呼ばれることもあった。

 だが、絶頂期は長くは続かなかった。

 関東大震災(1923年)、金融恐慌(27年)、世界恐慌(29年)と著しい不況が続いた。石炭市況は暴落し、経営する松島炭鉱や大日本炭鉱は、業績不振に陥った。

 事故が追い打ちをかける。

 29年、松島炭鉱の第3坑から突然出水し、一瞬にして42人の命が奪われた。34年、第4坑でも水害が発生し、54人が亡くなった。35年2月28日、会社は松島での採炭を断念した。新天地を松島の北10キロにある大島に求めた。

 春一の事業に資金を投じていた古賀銀行も窮地に陥る。26年に一時休業に追い込まれ、33年、ついに解散が決まった。

 預金保護制度などない時代。銀行破綻は庶民の生活を直撃する。佐賀では古賀家に対する怨嗟(えんさ)の声が満ちた。

 経営不振をみて、三井財閥は大日本炭鉱からの出資を引き揚げた。

 それでも、春一は経営者としての責任を全うしようとした。大日本炭鉱の債務整理に奔走した。一段落した1940(昭和15)年、同社社長を辞任した。

 第一線を退いた春一だが、業界団体はその手腕を買っていた。国家総動員法に基づき、戦時下の生産増強に向けた「石炭統制会・組合」が全国で設立された。春一は東京と仙台地方の組合理事長に推された。

 春一は戦後の1951年、70歳でこの世を去る。

 「九州男児の真髄」「奮闘の化身」「快男児」と呼ばれた男も、後半生は不運が続いた。

 春一は生前、こう語っていた。

 「もともと佐賀人は頑固で実業家には適さないといわれるが、それは間違っている。武士道を重んじるからか、先輩の多くは政治家や軍人官吏で、実業家の育成に力を入れていないだけだ。だから佐賀に、渋沢(栄一)や大倉(喜八郎)らがいないのだろう」

 春一は、自ら渋沢や大倉を目指し、さらに後進の実業家が佐賀から育つことを願っていた。

 だが、銀行破綻の余波が続く郷里では、高く評価されることはなかった。春一の功績をたたえる石碑は、常磐炭鉱のあった福島県いわき市内にある。(敬称略)

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 【参考文献・協力団体】『在京佐賀の代表的人物』(喜文堂)『佐賀史談』(佐賀史談会)『九州之巨人』(博進社)『三井の石炭』(三井物産株式会社石炭部)『いわき市勿来地区地域史3・下巻』(いわき市勿来地区地域史編さん委員会)/「みなくるSAGA」/西海市観光協会理事、松田一明さん