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【九州の礎を築いた群像 三井松島産業編】(5)創業100年

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【九州の礎を築いた群像 三井松島産業編】
(5)創業100年

三井松島産業グループとなった花菱縫製は、体形や好みに合わせた「楽しむオーダーメイド」を実現している 三井松島産業グループとなった花菱縫製は、体形や好みに合わせた「楽しむオーダーメイド」を実現している

 ■「なぜストロー会社を買うんだ」 変化挑みM&A、ベンチャー

 「石炭価格は必ず下がるときがくる。そのとき、なすすべがないのはまずい。石炭以外に収益の柱をつくらなければいけない」

 2010(平成22)年。三井松島産業社長の串間新一郎(65)=現会長=は、確信に近い予感があった。

 08年のリーマン・ショックで下落した石炭の国際価格は、中国の需要増などを背景に09年、10年と上昇を続けていた。オーストラリアで石炭事業を展開する三井松島産業の業績も、急速に回復した。

 社内の誰もが晴れやかな将来像を描いた。

 だが串間は、晴天にあって嵐を思った。

 三井松島産業の収益構造は石炭事業に依存していた。09年度連結決算の売上高610億円のうち、実に9割近くを石炭が占めた。

 その石炭事業は、各国のエネルギー政策や国際情勢に大きく左右される。石炭から石油への転換、国際的な需要や為替相場の急変。三井松島産業の業績はジェットコースターのように激しく上下した。

 国の政策転換の中で、長崎の池島炭鉱を閉山し、業績が悪化したのは、わずか10年前の話だった。

 串間は、豪州の石炭生産を軸に据えることで経営再建に筋道をつけた。石炭一本足の態勢を築いた張本人だけに、その危うさにも気付いていた。

 「石炭がだめになれば、この会社はもたない。石炭事業が好調な今こそ、手を打つ必要がある」

 串間の脳裏に浮かんだ戦略が、M&A(企業の合併・買収)だった。業績が堅調な会社を子会社し、グループとして安定収益を確保する作戦だった。

 串間も旧三井銀行(現三井住友銀行)時代に積んだノウハウがある。とはいえ、実務者が必要だった。

 「自分と同じ言葉で話せる人がほしい」。串間の思いに応え、三井住友銀行から野元敏博(58)=現三井松島産業常務=が出向してきた。

 旧三井銀行出身であり、串間と共通の言葉・価値観で語り合える。その上、目から鼻へ抜けるようなところがあった。

 「君に任せる」。串間は野元にM&Aを託した。

 買収した子会社が利益を出せなければ、投資に対するリターンが見込めない。M&Aは、銀行の融資以上に、事業性を冷徹に見極める力が求められる。

 野元は、M&Aアドバイザリー会社に勤める吉岡泰士(47)=現経営企画部部長=に助言を求めた。2人はタッグを組んで動き始めた。

                   × × ×

 M&Aの対象は、業績が堅調で、安定株主を必要としている会社に定めた。

 最初に着手したのが、宿泊施設や保養所運営の大手「エムアンドエムサービス」(大阪市)だった。全国の自治体や企業から、運営を受託していたが、経営者が引退の意向を示し、株の買い手を探していた。

 吉岡は、エム社の代理人となった銀行と条件交渉を進めた。

 野元は社内の合意形成にあたった。そこで、役員から集中砲火を浴びた。

 「石炭でこれだけもうかっているのに、なんでM&Aなんかに金を使うんだ」「なぜこの会社なのか。石炭とシナジー(相乗効果)がある企業の方がいい」

 野元は、資料を手に必死に説得した。「会社の将来のために、石炭一本足から脱却しないといけません」

 説明を終える度に、野元は「目の前がよいと、先々のリスクって見えにくいな」と実感した。

 串間も同意見だった。「既存事業が好調なときに、新しいことをやるのは勇気がいる。調子のよいところに投資する方が楽だ。だって誰も反対しないんだからな」

 それでも串間は、反対意見を押し切ることはしなかった。社長が強硬に意見を言えば、誰もが「イエス」というに違いない。それでは真の意味で社内は納得しないし、危機感を共有することもないだろう。串間は野元に説得役を任せた。

 野元は奮闘し、最終的に全役員の了承を取り付けた。「まあ一度やってみたら」という雰囲気だった。

 12年7月、エム社の全株式を取得した。

 苦労した分、野元は充実感を覚えた。東証1部上場の企業ながら役員が少なく、意思決定が速い。しかも福岡は生まれ故郷だ。「この会社に骨をうずめよう」。野元は銀行を辞め、転籍した。

 13年7月、吉岡も三井松島産業に入社した。買収の腕を見込んだ串間が声をかけた。M&Aをさらに進めるという意思表示だった。「1件も失敗させない」。吉岡は意気込んだ。

 野元、吉岡は次の案件に着手した。対象は、日本ストロー(東京都)だった。喫茶店などでよく見る伸縮ストローで圧倒的なシェアを誇る企業だった。

 「なんでストロー?」

 一部の役員から、またいぶかしむ声が上がった。

 「大手乳業、飲料メーカーからの信頼も厚い。他の企業にないものを持っています」。野元は説明した。

 人口減少社会において、ストロー業界の成長を疑問視する指摘もあった。

 「成長のシナリオは捨ててください」。吉岡はこう訴えた。これまでM&Aの失敗事例を数多く見てきた。買収する際に成長を見込みすぎると、買収価格が高くなり、結果的に損をする傾向があった。

 14年2月、日本ストローを子会社化した。

 2件の買収を経て野元と吉岡は、M&Aの3原則に到達した。事業の「安定性」「ニッチさ」「分かりやすさ」だ。

 小さくとも確実に需要がある「ニッチ(隙間)」市場を押さえれば、競争相手の撤退後に市場を独占できる。日本ストローはまさに、この「残存者利益」が見込める会社だった。買収される側にも安定株主が生まれるメリットがあった。

 3件目として、15年10月、紳士服などの製造販売業「花(はな)菱(びし)縫製」(さいたま市)を子会社化した。3原則が浸透し、役員から反対意見は出なかった。

 誰もがうなずいたもう一つの理由があった。M&Aに突き進んでいたころ、串間が危惧していた嵐が、石炭業界を襲っていた。

 中国経済の減速で12年以降、石炭価格が急落した。米国の石炭生産企業は、次々と経営難に陥った。

 三井松島産業も打撃を受けた。11年度に80億円だった石炭生産事業の営業利益は、14年度には4分の1の20億円程度まで下がった。

 だが、新規事業が10億円近く利益に寄与し、グループの黒字維持に貢献した。

 「もし、M&Aに着手していなければ、いまごろ赤字転落の危機だったかもしれない」。野元は、そうつぶやいた。

                   × × ×

 M&Aと同時に、串間はもう一つの方針を打ち立てていた。社内ベンチャーの設立だった。

 2011年1月、串間は、役員会議室に部長や課長代理を集めた。

 「会社の将来像を考えてほしい。次の100年を築くのは誰でもない、ここに集まったみんなが切り開くんだ。そのためのベンチャーチームをつくる」

 串間の狙いは、危機感の共有だった。

 会社は13年に創業100年を迎える。しかし、自分が抱く危機感が、社内、とりわけ管理職に共有されているとは思えなかった。

 銀行員生活を通じて、企業の新規事業のほとんどが失敗することは知っていた。それでも「会社は社長1人が経営するわけではない」と思ってほしかった。

 新規事業を考える5~6人の4チームを結成した。

 「何もないところから事業をつくるのか…。難しいな」。メンバーに選ばれた不動産部の中島浩(54)=現大島商事取締役不動産事業部長=は悩んだ。

 社有不動産を管理する中島は、高齢者向け住宅の急速な普及を感じていた。「いけるんじゃないか…」。チームは高齢者向け事業の提案を決め、役員に事業概要を説明した。

 コンペの結果、中島らが提案する介護事業と、太陽光事業の2つが選ばれた。

 サービス付き高齢者向け住宅を福岡市内の社有地に建設することになった。「親を住まわせたい。将来は私たちも暮らしてみたい」をコンセプトとした。

 しかし、計画の実現は困難を極めた。まず、施設運営のノウハウを持つパートナー探しが難航した。

 最終的に、グループ会社、大島商事(長崎県西海市)の力を借りることになった。炭鉱従業員の衣食住の支援から始まり、高齢者施設の運営もしていた。

 14年12月、市内に施設を建設し、高齢者の入居が始まった。「入るんだったら自分が1番になりたい」。三井松島産業が分譲したマンションに住む男性がそういって入居した。中島は手応えを感じた。

 太陽光事業の責任者になった総務部の部長、松本真士(54)=現MMエナジー社長=も試行錯誤を続けた。

 松本らのチームが提案したのが、福岡県福津市の社有地に、メガソーラーを建設することだった。12年8月、子会社が設立され、松本は社長に就任した。

 地元で何度も住民説明会を開き、事業への理解を求めた。予定地から塩田の遺構が見つかり、塩田跡に配慮した工法に転換するなど予期せぬ事態もあった。

 13年3月、第1期の2千キロワットが発電を開始した。ほっとしている松本に、串間は「次も頑張ってくれ」と声をかけた。

 社内ベンチャーが、本当の収益の柱に育つのは、これからだ。それでも、松本らの心中に「自分がやらなければいけない。上に甘えてはいけない」と使命感が生まれた。

 それこそが串間が求めていたものだった。

 嵐を乗り越え、創業100年を迎えた。串間は社員に呼びかけた。

 「進化論を打ち立てたダーウィンに『強いものが生き残るのではない。賢いものが生き残るのでもない。変化に対応できるものが生き残る』との言葉がある。企業も一緒だ。企業家魂を持って何事にも積極果敢に挑戦してほしい。組織の目指す方向と、その社員像が一致したとき、強力な会社ができあがる」(敬称略)

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