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【九州の礎を築いた群像】三井松島産業編(4)再建

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【九州の礎を築いた群像】
三井松島産業編(4)再建

串間新一郎氏 串間新一郎氏

 ■「本業に賭ける」 ラッキーボーイの選択 病に倒れた社長、後を託す

 「三井松島産業に行ってもらいたいんだ」

 2005(平成17)年の春先。農業資材販売会社の取締役を務めていた串間新一郎(65)=現三井松島産業会長=は、自宅で1本の電話を取った。

 電話の相手は、三井住友銀行の人事担当の役員だった。串間が以前在籍していた銀行でもある。

 役員は続けた。「オーストラリアやインドネシアで石炭事業をやっている会社でね。海外経験のある人を探しているんだ。社長に会ってほしい」

 聞けば、今度退任する副社長の後任を探しているという。「分かりました」と即答した。

 串間は大学卒業後、三井銀行に入行した。行名は「太陽神戸三井」「さくら」そして「三井住友」と変わった。その中で串間は国際畑を歩いた。

 インドネシアに勤務していた1998年ごろ、宮崎の実家に住む父親が認知症を患った。串間は一人っ子だ。父母のことを思い、退職を願い出た。

 ところが慰留され、鹿児島支店長への就任が決まった。鹿児島なら週末に、実家に帰ることができる。

 この人事に動いてくれたのが、電話の役員だった。大恩ある人物の依頼だ。断る選択肢はなかった。

 串間は、都内のホテルで、三井松島産業社長の米沢祥一郎(1940~2008)に面会した。

 「銀行出身だから、まず経理を担当するのだろう」。そんな串間の予想は外れた。

 「経理は別の人間がやっているので、経営企画をみてほしい。まあ、しばらくは、ジッとしておいてくれたらいいよ」

 だが、三井松島産業に経営企画の部署はなかった。「経理に触れられたくない理由でもあるのだろうか」。串間は勘ぐった。

 入社後、串間は財務資料に目を通し、驚いた。

 三井松島産業は2001年、長崎の池島炭鉱を閉山した。その頃、経営は急激に悪化していた。

 池島炭鉱を経営していた子会社は債務超過に陥っていた。その影響で、三井松島産業の純資産は100億円から半分の50億円にまで減った。一方、借入金残高は350億円に上った。

 健全性を示す自己資本比率は5%を切り、借金を返す体力はないといってよかった。無配も続いていた。

 一部の銀行は、融資に応じなくなった。金融機関にとって三井松島産業は、「不良債権」の一歩手前だった。

 メインバンクである三井住友銀行が、経営の実態を把握するために串間を送り込んだ-。三井松島産業の社員はもちろん、串間本人もこう考えた。歓迎されるはずがない。

 「そりゃ冷ややかな空気にもなるな。貧乏くじを引いたかもしれない」。串間は独りつぶやいた。

 経営再建に向け、経営陣は、すでに資産処分を進めていた。福岡市内の寮や社宅、東京・銀座のビル、有価証券、ゴルフ会員権…。

 それでも福岡市の中心部にある赤坂には自社ビルを所有していた。ビル11階には美しい中庭まであった。

 「このビルを売ればいいのに」。そう思ったが、財務担当者は「ここだけは」と抵抗していた。再建への道は遠い。

 「この会社はどうやったら生き残れるんだろうか」

 串間はそう思いを巡らせた。だが、経営には直接タッチできない状態だった。複雑な感情を抱きながら、倒産したときのことを考え、新聞の求人広告を眺める日々が続いた。

 半年ほどたったころ、社長の米沢から一つのミッションが降りてきた。

                 × × ×

 「どちらを売却すべきか」。米沢は究極の選択を迫られていた。

 三井松島産業は経営多角化を進め、1993(平成5)年から、携帯電話やデジタルカメラ用の非球面レンズの開発・生産に取り組んでいた。

 新興国を含め、携帯電話が急速に普及していた。「光コンポーネント」と呼ばれるレンズ事業は、今後需要拡大が見込まれた。

 「光コンポーネントを買いたい会社があるようです」。ある銀行から、情報が米沢にもたらされた。

 同じ頃、もう一つの売却候補が挙がっていた。オーストラリアにあるリデル炭鉱の権益だった。

 91年、国内炭の需要縮小を見込み、獲得した。海外炭開発の第一歩となった重要なヤマだった。

 それでも手を付けようとしたのには、別の事情もあった。

 池島炭鉱の閉山後、じん肺を患った炭鉱従業員が、損害賠償を求めて訴訟を起こした。請求額計60億円。和解を目指したが、裁判の行方次第で、会社は倒産しかねない。

 和解金の捻出策が、リデル炭鉱権益の一部の売却だった。米沢は現地企業と売却交渉を始めていた。

 新たな収入源となり得るレンズ事業か、これまでの本業であった石炭事業か-。会社が生き残るには、どちらかを売るしかない。

 米沢は、銀行出身で事業の目利きができそうな串間に、判断材料を集めるように命じた。

 串間は銀行時代の人脈を使い、情報を集めた。

 「レンズ事業は確かに有望だ。ただ、製品サイクルが短い。絶え間なく設備投資や技術開発が必要で、資金力のない会社が持ち続けてもついていけなくなる」。そう助言を受けた。

 レンズ事業の収支をみると、ぶれが激しかった。安定しているとは言い難かった。

 串間は米沢に提案した。

 「売るのであればレンズ事業でしょう。将来有望かもしれませんが、続けるにはまとまった資金が必要です。賭けるんだったら、本業の石炭に賭けましょう」

 米沢の顔がぱっと明るくなった。「そうか。君もそう思うか。うちは炭鉱屋だからな」

 商社を経て三井松島産業に入った米沢は、長く石炭を扱う部署に身を置いた。石炭への思いは人一倍強く、炭鉱事業を売りたくはなかったのだ。

 社内にプロがいる本業に特化する。串間の提案は、米沢にとって、「我が意を得たり」というべきものだった。米沢は串間に、レンズ事業の売却交渉を進めるように指示した。

 調べると、買い手候補は複数あった。

 その頃、じん肺訴訟の和解協議が進んだ。間もなく和解金が決まる。交渉には慎重さに加え、スピードが求められた。

 「焦っていることを相手に悟られれば、足元を見られてしまう」

 慎重に落としどころを探り合い、最終的に、ガラス大手の旭硝子と契約を締結した。金額だけでなく、従業員を預ける会社として、ふさわしいと考えた。

 レンズ事業を分社化し、2006年3月、全株式を譲渡した。譲渡価格は48億円だった。その契約締結の4日前、じん肺訴訟は30億円を支払うことで和解が成立していた。

 交渉はギリギリで間に合った。

                 × × ×

 そのころ、石炭価格が上がり始めた。発電に使う一般炭でみれば、03年に1トン26ドルだった価格が05年に52ドルに上昇した。新興国の需要増が追い風となり、06、07年と上昇の勢いは止まらなかった。

 リデル産の石炭も高く売れるようになり、利益をもたらした。銀行が一度は要注意先とみた会社は、着実に業績を改善した。

 串間は「石炭を売る選択をしていたら、会社はなくなっていたかもしれない」と、胸をなで下ろした。

 会社存続に心を砕いてきた米沢の喜びは、さらに大きかった。串間に声をかけた。

 「君が来てからレンズ売却の話が舞い込み、会社の危機も切り抜けられた。君はラッキーボーイだ」

 「運も実力のうちですよ」

 2人は笑いあった。

 米沢はすっかり串間を信頼するようになった。

 以来、串間は業績再建に辣腕を発揮した。不採算事業や将来性のない部門を次々と畳んだ。その後ろに親分肌の米沢が控え、社内の波風を押さえた。二人三脚で再建を進めた。

 その米沢が病魔に侵された。

 08年の夏前。役員会での米沢の発言に全員が驚いた。「がんが見つかった。手術はしなくていいんだが、治療が必要だ」

 胆管細胞がんだった。間もなく米沢は入院した。

 9月、見舞いに行った串間に、米沢は1枚の紙を取り出した。新たな役員体制が書かれていた。社長には串間の名前があった。

 「しばらく治療が必要だ。僕は会長になるから、君が社長を引き継いでほしい」

 「私はそんな器じゃありません。まだ入社して3年です。社内では厳しいことも言ってきましたし、人望もありません。無理です」

 後日、病院で米沢の妻が、串間を呼び止めた。

 「実は、主人はもう長くありません。串間さんにいろいろとお願いをしていると思うんですが、受けていただけませんか。でないと会社に迷惑をかけてしまいます。それだけは、主人は嫌なんです」

 そのころ、リーマン・ショックで日本経済は大混乱に陥っていた。会社の生き残りに心血を注いできた米沢にとって、後を託す人間を決めることが、何より大切だった。

 串間にもその気持ちは痛いほど分かった。

 「この場をしのぐには、自分しかいないかもしれない」。覚悟を決めた。

 「社長がお元気になられるまで、ピンチヒッターとしてお受けします」

 「ありがとう」

 米沢はほっとした表情を見せた。

 1カ月後、米沢は世を去った。67歳だった。

 08年10月23日、串間は社長に就任した。嵐の中での船出だった。右肩上がりだった石炭価格は、リーマン後、急落していた。

 「何が何でも会社をつぶさない。最後の社長になるのは嫌だ」。串間の脳裏はその思いでいっぱいだった。

 嵐の中だが、遠くに灯台が見えた。2013年に迎える創業100周年だ。「100年を前に、どん底からのスタートだ。これより悪いことはない」。串間は開き直った。

 会社が残るにはまず、運転資金が必要だ。串間は、資金調達に奔走した。

 その甲斐あって「資金ショート」という最悪の事態は免れた。石炭価格も、なんとか利益が出せる水準で踏みとどまった。

 当面の危機は去った。

 「石炭に集中したのは間違いじゃなかった。しかし一本足では、突然、石炭事業がだめになったときに、会社が立ちゆかなくなる。次の事業を育てないとな」

 串間は創業100年とその先を見据えた。(敬称略)

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