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【九州の礎を築いた群像】三井松島産業編(3)閉山

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【九州の礎を築いた群像】
三井松島産業編(3)閉山

九州最後のヤマとなった長崎県の池島炭鉱 九州最後のヤマとなった長崎県の池島炭鉱

 ■池島炭鉱の壁に「涙雨」の文字 観光地としてよみがえる

 午前4時。サイレンが静寂を破り、池島炭鉱の朝は始まる。深酒に負けず起き上がった炭鉱従業員は、暗いうちに身支度を調え、弁当を手に坑内に向かう。

 池島(長崎県外海(そとめ)町、現長崎市)は九州の西側、五島灘に浮かぶ。この島を基点に1959(昭和34)年10月、海底炭層の採掘が始まった。

 経営していたのは、三井松島産業の子会社「松島炭鉱」だった。同じ長崎県の松島で創業し、大島でも採炭した。

 池島の石炭は、日本の高度成長を支えた。

 島周辺の海底には、網の目のように総延長96キロの坑道が走った。

 広大な炭鉱に従業員を効率よく送り込まなければならない。高速エレベータは、海面下650メートルまで約100秒で一気に降りる。坑道には、従来のトロッコより速い最高時速50キロの「高速人車」(ドイツ製)が走り、人が乗るベルトコンベヤー「マンベルト」があった。炭壁はドラムカッターで削り取る。

 近代技術を駆使した炭鉱は、「海底の大工場」と呼ばれた。

 1970年、周囲わずか4キロの島の人口は、7776人を数えた。石炭を品質で分ける「選炭工場」や従業員アパートに加え、小・中学校、飲食店、ボウリング場、パチンコ店やテニスコートが設けられた。

 3交代で坑内に入る従業員のため、スナックは夜も朝もなく、にぎわった。

 しかし、国内のヤマは70年代以降、次々と閉山した。国のエネルギー政策が、石油を中心とする「油主炭従」に転換されたからだ。脇役になった石炭は、海外炭との価格競争にも押された。

 「次は、池島かもしれないな」「いや池島は国内で最後まで残る優良鉱だ」

 国内のヤマが一つ消える度に、池島の人々は閉山の不安と、存続への希望に揺れた。

 97年3月30日、福岡、熊本両県にまたがる日本最大級の炭鉱「三井三池炭鉱」が閉山した。1889(明治22)年、政府が三井財閥に払い下げてから124年もの間、三井鉱山(現日本コークス工業)の、そして日本が誇る主力炭鉱だった。閉山は、日本の石炭産業の衰退を象徴する出来事だった。

 最盛期に1047カ所あった国内の炭鉱は、2鉱を残すのみとなった。北海道釧路市の太平洋炭鉱と、池島炭鉱だった。

 「何としても、このヤマはつぶしてなるものか」

 三井松島産業の経営陣は、池島のグラウンドで元気に駆け回る子供に眼を細めながら、固く誓った。炭鉱がなくなれば、子供らは見知らぬ土地へと散り散りになってしまう。

 「われわれはまだまだ頑張っていく」。三井松島産業社長の多河喜史(81)は、三井三池が閉山する前の1997年2月、福岡市内で「これからの石炭」と題した講演をし、気丈に語った。

 だが、環境は厳しくなる一方だった。

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 2000年に入ると、国内炭の価格は1トン当たり約1万5千円だった。国内で炭鉱を維持するギリギリの金額を政府主導で決めていた。それでも輸入炭の3倍近い価格だった。

 高価な国内炭は、電力業界が引き取ってきた。経済性を犠牲にしても、日本の炭鉱を守るためだった。

 だが、電力会社も自由化の波をかぶり、効率化が欠かせなくなった。「いつまでも割高な国内炭を引き取ることは許されない」

 そんな声が電力業界から公然と上がるようになった。わずか2鉱を守るための保護政策に、冷ややかな空気が流れ始めた。政府の石炭鉱業審議会では、国内炭価格のさらなる引き下げが求められた。

 松島炭鉱の2000年度決算は3期連続の赤字となり、54億円の債務超過に陥った。

 「お前しかいない」

 00年5月、三井松島産業社長の多河は、常務の田代勉(76)=後に会長=を、松島炭鉱社長に指名した。

 福岡市出身の田代は、炭鉱に活気があった70~80年代、経理課社員として池島に勤務した。立て直しへ再び池島に赴いた。

 だが、天は池島に味方しなかった。

 社長就任の3カ月前、坑内火災が発生していた。けが人こそなかったが、一部の坑道閉鎖を余儀なくされた。出炭量が減少すれば経営の大打撃となる。

 田代の陣頭指揮の下、従業員は、別の坑道での採掘に生き残りをかけた。

 その坑道で01年6月、大量の出水があった。目標の年間120万トン規模の採炭は絶望的となった。

 三井松島産業の多河は「グループの総力を挙げて、池島炭鉱を支える」と号令を掛けた。グループ全体で人員削減や給与カットなど合理化を進めた。三井松島産業は、31億円の資金支援をした。

 だが、炭鉱を維持する体力は、もう残っていなかった。「これ以上は耐えられない」。多河は断腸の思いで決断した。

 「社員、家族、地域社会に、大変なご迷惑をかける形になりました」

 01年10月12日。多河と田代は労働組合に11月29日での閉山を告げ、深々と頭を下げた。2人はその足で、福岡市内で記者会見を開き、閉山を発表した。九州最後の炭鉱は、業界を襲う荒波の前に散った。

 だが、田代らの仕事は終わらなかった。「敗軍の将」として、従業員の先行きに筋道を付けなければならない。

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 池島炭鉱の閉山によって、協力会社を含め1千人以上の従業員が職を失う。

 「三井松島産業の基礎を築いたのは誰なんだ! 炭鉱の従業員じゃないか」

 10月以降、閉山に向けた労使交渉が行われた。労組幹部は、田代ら経営陣に、厳しい口調でいらだちをぶつけた。

 交渉のテーブルにいた松島炭鉱事務課長の堀江慎一(58)=現三井松島リソーシス社長=は、労組側の言い分が、痛いほどわかった。

 堀江は1980年の入社以来、18年間、池島で勤務した。池島で出会った女性と結婚し、授かった2人の息子は、池島の小・中学校に通った。20代30代を過ごした池島は「第2の故郷」だった。

 「炭鉱あっての三井松島産業だったのに、本当になくなってしまうのか」。寂しさを感じた。

 すでに水面下で接触があったのか、組合側が「閉山撤回」を求めることはなかった。これまでの賃金カット分の支給や再就職先の確保を求め、「満額出ないとヤマに帰れない」と迫った。失業後の生活保証金の上積みに議論が集中した。

 それでも労組は、会社の状況を十分に理解しており、要求額を抑えていた。

 「最大限の努力をする」。田代ら会社側は、ほぼ満額回答で応じた。再就職先も一定、確保した。01年11月15日、4回目の交渉で、最終合意に至った。

 その日、記者会見した田代は静かに語った。

 「労組案を受け入れる決心をした後、これで閉山が確定するとさびしい思いがした。炭鉱は戦後の日本経済に貢献し、非常に残念だが、これもやむを得なかった」

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 池島炭鉱最後の日となった01年11月29日。空は低い雲に覆われ、朝から雨が降っていた。

 午前6時すぎ、1番方が撤収作業のため坑内に入った。「涙雨」。誰かがトイレの壁に書いていた。炭鉱従業員、そして池島で暮らす全ての人の思いを代弁していた。

 田代は、従業員を見つめた。やむを得なかったとはいえ、従業員と家族の生活の場を守れなかった。胸が張り裂けるようだった。心の中で、涙が止めどなく流れた。

 「従業員と会社の将来を考えれば、これが最善の道だった」。田代は自分に言い聞かせるほかなかった。

 九州から炭鉱がすべてなくなった。

 「池島炭鉱には大変お世話になった。1960年には石炭火力が当社の発電電力量の6割を占め、『火力王国』の九州を支える原動力となった。時代の変遷を感じ、大変さびしい思いだ」

 九州電力社長の鎌田迪貞(みちさだ)(81)=現特別顧問=はこうコメントした。

 02年3月22日、関係者を集めた閉山式が、長崎市内のホテルで開かれた。

 「大人にとっては戦場だったが、子供たちにはかけがえのない故郷であり、夢の島だった。池島を去る子供らに申し訳ない気持ちでいっぱいです。子供たちに池島を忘れてほしくない。将来、何度も訪ねてこれるような島にするため、炭鉱企業として責任を果たしていきたい」

 多河は震える声で、こう語り、頭を下げた。出席者は写真パネルを見ながら酒を酌み交わし、在りし日に思いをはせた。

 池島からは次々に従業員が去った。閉山時に2700人だった人口は、3年で5分の1になった。

 それでも、池島が地図から消えたわけではない。

 池島炭鉱跡は、海外の研修員が採炭技術を学ぶ場所となった。国の計画の下、グループ子会社の三井松島リソーシスが炭鉱離職者150人を再雇用し、ベトナムやインドネシアから研修員を受け入れた。

 池島炭鉱は国内で唯一、炭鉱の坑内が見学できる場所として、年7千人の観光客が訪れる。

 そんな三井松島リソーシスの社長に今年6月、池島を「第2の故郷」という堀江が就任した。

 「池島にもう一度、にぎわいを取り戻したい」。燃えさかるような活気にあふれた炭鉱。その埋(うず)み火は、今も池島に残っている。(敬称略)