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【九州の礎を築いた群像】三井松島産業編(2)豪州進出

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【九州の礎を築いた群像】
三井松島産業編(2)豪州進出

リデル炭鉱への資本参加の文書に調印する三井松島産業の吉田大介社長(右) リデル炭鉱への資本参加の文書に調印する三井松島産業の吉田大介社長(右)

 ■「俺たちも『銀シャリ』を売りたいんだ」 内向き返上 賭けに出る

  1990年、日本はいまだバブル景気の狂騒の中にあった。だが世界を見渡せば、冷戦構造が崩壊し、中東でイラクがクウェート侵攻の準備を進めていた。不透明感が漂っていた。

 その年の6月、三井松島産業の東京支社に、山一証券の社員がやってきた。

 燃料部社員の小柳慎司(57)=現専務=が応対した。燃料部は自社所有の池島炭鉱(長崎県)の石炭や、輸入していたソ連(現ロシア)炭を、電力会社やセメント会社に販売する業務を担っていた。

 山一証券社員は、資料を示しながら言った。

 「オーストラリアのハンターバレー地区にリデル炭鉱というヤマがあります。その権益を売りたいという会社があるんですよ」

 提案は、リデル炭鉱で操業する共同企業体(JV)への資本参加だった。

 出資の見返りに、三井松島産業は石炭を得ることができる。山一証券は、交渉がまとまれば、日豪双方の会社から手数料を得る。

 ハンターバレー地区は、豪州東部のニューサウスウェールズ(NSW)州に位置する。一帯は炭鉱が集まり、「炭鉱銀座」と呼ばれていた。もちろん、小柳もその名は知っていた。

 資料によるとリデル炭鉱の年間生産量は70万トン程度だった。三井松島産業にとって、大き過ぎも小さ過ぎもなく、適性な規模のヤマといえた。

 「わが社が豪州炭を扱えれば初めてだ。これはすごい話だな」。小柳は食指が動いた。

 三井松島産業は窮地にあった。

 戦後、日本のヤマは活況に沸いた。連合国軍総司令部(GHQ)が疲弊した日本経済の復興に向け、鉄鋼と石炭に資材・資金を重点的に投入する「傾斜生産方式」を採用したからだ。

 日本が主権を回復した後も、石炭重視は続いた。1961年に戦後最高の5540万トンを生産した。

 ところが62年、原油輸入が自由化された。エネルギーの中心は石炭から石油へ転換する。国内の石炭生産は縮小の一途をたどった。

 加えて、85年のプラザ合意により、円高が急速に進行した。輸入炭が値下がりした。

 国内炭の需要家である鉄鋼会社は、安い海外炭を求め、大手商社が豪州や米国へ買い付けに走った。

 国内炭は真冬の時代を迎えた。各地でヤマが閉山した。

 「池島も長くないかもしれない。代わる炭鉱を海外で確保しなければ、会社存続の危機だ」

 三井松島産業は86年、ソ連炭の輸入を開始した。豪州炭などに比べ、価格は安いが品質もそれなりだった。主力にはなりそうもなかった。

 海外進出で他社に後れを取っていただけに、リデル炭鉱は輝いて見えた。

 「このチャンスを逃せば、もう次はないかもしれない」

 小柳はそう思った。叶(かな)うならば、炭鉱銀座の「銀シャリ」を売りたかった。品質のいい石炭を、業界ではそう呼ぶ。経営陣も出資検討を始めた。

 半面、不安もあった。

 「山一証券は買い手が付かない案件を持ってきたのではないか」。過去にもそんなことがあったのだ。

 小柳の心配は杞憂ではなかった。リデル炭鉱は限りなく「危ない買い物」だった。

                 × × ×

 三井松島産業に、豪州の会計事務所を通じて、情報が入った。出資先のJVの中核企業「サベージ・リソーシス」に関するものだった。

 サベージ社はリデルを豪州大手の炭鉱会社から買収したばかりだった。ところがリデルの生産がうまくいかず、資金繰りに行き詰まったという。

 そもそもサベージ社にリデル炭鉱を売った会社も「将来の見込みがないから手放した」という話が伝わってきた。「終わった炭鉱」という人までいた。

 社長の吉田大介(1922~2003)は悩んだ。

 三井松島産業の社風は、「石橋をたたいても渡らない」と評される。高効率な池島炭鉱という「ドル箱」を持ち、冒険する必要がなかったからだ。

 だが時代は、この内向き志向の会社に、賭けを要求していた。

 「本当に出資してよい案件かどうか、調べよう」

 取締役の岩田清久(81)=元副社長=は90年9月、リデル炭鉱に向かった。池島炭鉱で腕を磨いた地質、採鉱の技術者らも同行した。

 古い炭鉱だった。1923年に個人経営の炭鉱として始まり、トンネルの入り口「坑口」は、そのときのまま70年近く使っていた。日本でいえば、大正時代の施設を、平成に入って使っているようなものだ。

 坑内に入った岩田の眼前に、衝撃の光景が広がった。石炭層が内部で崩れ、重機が埋まったまま放置されていた。設備は老朽化し、採掘条件も悪かった。

 「ぱっとしない炭鉱だな。大丈夫か?」

 岩田は疑念を抱いた。事前の情報通り、「終わった炭鉱」ではないのか-。

 しかし、地質屋、採鉱屋は別の見方をした。

 それまでのボーリング調査などの結果、炭鉱の埋蔵量は1億4千万トンと推定されていた。

 最新の機材を用いれば、年間生産量を飛躍的に伸ばすこともできそうだという。量もさることながら、品質もよさそうだった。製鉄用の原料炭に加え、発電用の一般炭も掘れる魅力的なヤマだった。

 「うちの技術があればもっと掘れるんじゃないですかね」。技術者の1人は岩田に語りかけた。

 池島炭鉱は海底650メートルまで坑道(トンネル)をつくり、石炭を掘った。当然、トンネル掘りから採炭まで、必要な技術、プランづくりに精通している。「わが社の坑内掘り技術は、世界に冠たるものだ」。誰もが自負していた。

 岩田は10日間の調査を終え、いったん帰国し、会社に報告した。

 報告を受けた吉田は決断した。会社存続のために、冒険しなければいけない時がある-。

 「賭けだが、やってみよう」

 90年11月、海外法人第1号として、三井松島オーストラリアを設立し、業務態勢を整えた。そして、サベージ社との交渉を、岩田に任せた。

                 × × ×

 岩田は91年3月、再び豪州に向かった。今度は国際交渉に精通した辣腕(らつわん)弁護士が同行した。契約交渉のためだ。

 何%の権益をいくらで取得するか、鉱区の範囲はどうするか-。サベージ社との間で激しいやり取りがあった。

 岩田は英語はほとんど分からなかった。渡航前にNHKのテレビ番組で慌てて勉強したほどだった。しかも豪州は「エイ」を「アイ」と発音する。弁護士とサベージ社の社員が笑うと、通訳してもらって後から笑った。

 合意に向けた契約書の確認作業を続けた。ようやく契約内容がまとまったのは1カ月後だった。用紙を積み上げると、優に1メートルを超えた。

 91年4月、サベージ社と正式に合意し、契約に調印した。

 次は技術陣の出番だった。

 サベージ社側は、三井松島産業の持つ坑内掘りの技術に期待した。石炭層に向かってまずトンネルを掘り、昔ならば人力で、今なら機械で石炭を掘る。

 だが、坑内掘りでは採掘量が思うように伸びなかった。技術陣は発想を転換した。

 「石炭層は100メートル程度の浅い場所にある。これなら、露天掘りの方が向いてるんじゃないか」

 露天掘りは、地表の土をはぎ取り、地下の石炭層に向かって巨大な穴を掘る。坑内掘りに比べ簡単で、コストも低い。

 日豪技術者の協議の末、露天掘りへ変更した。そこから、生産量はぐんと伸び始めた。

 最初に山一証券側と応対した小柳は96年、豪州駐在となった。

 福岡市出身で、地元で働きたいと三井松島産業に入社した。ところが、東京勤務を経て南半球まで行くことになった。

 炭鉱長やJV関係者と日々意見を交わし、生産性向上を目指した。生産量は当初の年70万トン態勢から、99年は270万トンまで増加した。

 「終わった炭鉱」は、銀シャリを生み出すヤマに生まれ変わった。

 そんなリデル炭鉱を、2014年6月に社長に就任した天野常雄(58)は、特別の感慨を持って眺めていた。

 天野は以前、石炭輸入を手がける川鉄商事(現JFE商事)の社員として、豪州に駐在していた。天野のもとにも、現地の人脈を通じてリデル炭鉱に投資しないかという話があった。

 しかし天野は、別の人脈を通じ、炭鉱が大きな問題を抱えていることを知っていた。「リデルに投資するなら、他に投資した方がいいと思います」。駐在員として、川鉄商事の本社に報告した。

 そのリデル炭鉱をよみがえらせた三井松島産業の社長に、自身が就任したのだ。不思議な縁を感じた。

 天野は小柳にこう語った。

 「地方にある、それも豪州の石炭を扱ったことのない会社が投資したと聞いて、本当に驚いたよ。でも、ヤマを評価する技術者がいる会社だからこそ、なせる業だったんだな」(敬称略)