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【戦後70年 東北の記憶】赤ちゃん斡旋事件(上) 「命守るため法改正を」

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【戦後70年 東北の記憶】
赤ちゃん斡旋事件(上) 「命守るため法改正を」

 「急告、生まれたばかりの男の赤ちゃんをわが子として育てる方求む」

 昭和48年4月20日、宮城県石巻市の地元紙に、小さな広告が掲載された。依頼したのは石巻市の産婦人科医、菊田昇医師=当時(46)=だった。

 しかし、この広告が議論を巻き起こす。2日後に、一部新聞が報道。34年から48年まで、菊田医師が100人を超える赤ちゃんを斡旋(あっせん)していたことが分かったからだ。斡旋は医師法に抵触する行為だった。

 菊田医師が34年から赤ちゃんの斡旋を始めたのは、中絶を望む妊娠7カ月の女性の申し出を断ったことがきっかけという。当時の報道によると、その後女性が別の病院で中絶したことを知り、「いっそのこと産んでもらい、子宝に恵まれない人に世話する方がいい」と考えたという。

 ■国会の参考人に

 報道の反響は大きく、そのわずか2日後には、参院法務委員会に菊田医師が参考人として呼ばれることに。そして、こう訴えた。「赤ちゃんの生命を守るためにも、実子特例法を制定してほしい」

 それまでの養子縁組では、相続などで生みの親との法的関係が残ることや、本人の戸籍に「養子」と記される。母親の戸籍に子供を産んだ事実が残ることから、望まない妊娠で中絶を望む人も多かった。

 菊田医師は「子供を助けるためには、法を犯すこともやむを得なかった」と釈明。養父母を実の親と同様に扱う制度を求めた。

 当時、望まない妊娠をして中絶する母親が後を絶たず、妊娠5カ月以上で、母胎が危険な状態での中絶も少なくなかった。問題発覚前の45年の人工中絶は約75万5千人。きちんとした病院で処置を受けない中絶を含めると、100万人を越えるとされた。平成25年度の約18万6千人に比べると、その多さが分かる。

 ■賛否両論

 「信念の強い男だった」。菊田医師の代理人を務めた仙台市の佐々木泉弁護士(86)はそう話す。「医師として許されないことは分かっている。それでも子供を助けなければいけない」と力説する菊田医師の姿が印象に残っているという。

 当時の新聞には「母親の命と子供の命、両方を考えた結果」「違法だが勇気ある行為」などと賛同する投書や意見が相次いだ。一方、識者からは「将来、近親婚などの危険性もあり、トラブルになりかねない」「医師法に違反しないやり方をとるべきだ」などの批判も。50年3月には日本母性保護医協会から、同9月には日本産科婦人科学会宮城県地方部会から除名される。

 52年8月には愛知県産婦人科医会から医師法違反罪などで告発され、刑事事件に発展。53年3月、仙台地検が略式起訴し、仙台簡裁は罰金20万円の略式命令を出した。

 行政処分も出る。54年6月には、厚生省が菊田医師を6カ月の業務停止にした。菊田医師は処分の取り消しを求めて東京地裁に提訴したが、63年6月の最高裁で敗訴が確定した。

 ただ、「違法」と認定される一方で、法改正は着実に進んでいた。57年9月、法務省の法制審議会が制度の見直しを開始した。(上田直輝)

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 【昭和48(1973)年】

 水俣病1次訴訟で、熊本地裁が原因企業チッソの責任を認める判決を出す。プロ野球では、巨人が9年連続日本一(V9)を達成。第4次中東戦争が勃発し、原油が値上がり、第1次オイルショックへとつながった。