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【戦後70年 語り継ぐ】静岡大空襲(下) 安倍川花火とともに歩んだ復興

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【戦後70年 語り継ぐ】
静岡大空襲(下) 安倍川花火とともに歩んだ復興

 ◆占領軍の壁

 焼け野原となった静岡市は、終戦直後から復興への道を歩み出した。「静岡戦災復興誌」によれば、昭和20年11月、戦災復興院が策定した「戦災都市復興計画」の基本方針に基づき、区画整理事業や上水道事業などが開始。応急簡易住宅3293戸が建設され、戦渦の反省を踏まえて商店密集地は「防火地域」に指定された。

 こうして、街が復興に向けて歩み始めていた20年代後半、先の大戦末期の静岡大空襲の記憶を風化させまいと田町学区の青年団から「安倍川で花火を上げよう」という声が上がった。当時、青年団長を務めていた元静岡市議の杉山伊三雄(いさお)さんらの発案といわれている。

 「杉山さんはリーダーシップがある人で、彼が『2尺玉を打ち上げよう』と提案すると、みんな賛同しました」。こう懐かしそうに話すのは、元青年団のメンバーで、現在も田町に住む村松仁平(にへい)さん(83)だ。2尺玉の購入資金を集めるため、村松さんらは2尺玉の模型を乗せたみこしを担いで、「ワッショイ、ワッショイ」と市内を練り歩いた。

 「『この花火を上げるお金を下さい』と声を掛けて回ったら、かなり多くの人が寄付してくれた」(村松さん)と資金集めは順調に進んだが、思わぬ難題にぶち当たった。当時、日本はまだ連合国軍総司令部(GHQ)の統治下にあったため、花火大会の開催には占領軍の許可が必要だった。杉山さんの弟・成一さんは「一生懸命-杉山伊三雄小伝-」の中で、「上空何メートル以上はだめとか二尺玉はだめとか、面倒な規則があった。頭をしぼって考えた末、特殊玉ということでやっと許可してもらった」とつづっている。

 打ち上げ当日、安倍川の河原は、おでんや安倍川もちを売る露店も並び、大勢の市民でにぎわった。「ズドン!」。大会終盤、2尺玉は大きな音とともに天高く昇り、大輪の花火が夜空を焦がした。土手に寝そべって見上げていた村松さんは「2尺玉は迫力があってとてもきれいだった。街全体を元気付けるようだった」と話す。この花火大会の記録は残っていないが、安倍川花火大会が始まるきっかけになったと語り継がれている。

 ◆鎮魂の思い受け継ぐ

 安倍川花火大会と同日に行われる戦没者慰霊祭で、半世紀以上にわたって導師を務める感応寺住職の伊藤通明さん(91)は、第一回の花火大会を見て、「平和はいいなあ…」としみじみと感じたことを覚えている。学徒出陣で佐賀県唐津で終戦を迎えた伊藤さんは、父とともに静岡大空襲で焼失した寺の再建に奔走。母は自ら肥やしをかつぎ、慣れない畑仕事でサツマイモやカボチャを育てて6人きょうだいを養った。

 しかし、終戦の年の冬に妹の仁子(きみこ)さんが15歳の若さで急死。伊藤さんは「焼け野原で一粒のコメもなく、ただお経を読んであげることしかできなかった」と唇をかむ。

 静岡市の復興が進んだ30年には、念願だった鉄筋コンクリート造りの本堂が完成。「戦没者の命をもらって生きている」という思いが募り、父に代わって慰霊祭の導師を務めるようになった。毎年花火大会の日を迎えるたびに、「妹や空襲で亡くなった人たちもこの花火を見て喜んでくれているだろうか」と思いを新たにしている。

 先の大戦から70年が経過し、空襲の記憶と結びつけて安倍川の花火大会を見る人の数は確実に減ってきている。それでも、自らも大空襲を経験した杉山好弘実行委員長(77)は「戦没者への鎮魂の思いは、今もしっかりと受け継いでいる」と話す。今月25日の花火大会の開催に向け、「たくさんの犠牲の上に今の平和があり、花火大会とともに静岡の街が復興したことを若い世代に知ってほしい」と期待を込める。(広池慶一、村嶋和樹)