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【戦後70年】終戦間際の沖縄県警察部長・荒井退造 職に殉じた「栃木の偉人」

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【戦後70年】
終戦間際の沖縄県警察部長・荒井退造 職に殉じた「栃木の偉人」

 ■郷土史研究家が功績伝える

 終戦間際、戦況が厳しくなった中、沖縄県警察部長として県民の疎開を進め、沖縄では知らない人がいないと言われる荒井退造(たいぞう)(1900~45年)。最後は職に殉じ、沖縄本島最南端に当時の知事とともに石碑が建てられたが、出身地・宇都宮ではほとんど知られていない。荒井の偉業を伝えるため、20年研究してきた宇都宮市の郷土史研究家、塚田保美(やすみ)さん(83)が13日、同市内で講演する。

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 講演は13日午後1時半、同市竹林町のトヨタウッドユーホームすまいるプラザ「オトスクホール」で開かれるが、反響は大きく、既に予約で満席となった。

 ◆7万3000人を県外疎開

 荒井は旧清原村出身。旧制宇都宮中学校(現宇都宮高校)を卒業後、苦学して高等文官試験に合格。内務省官僚として警察の要職を歴任した。そして、昭和18年7月、沖縄県警察部長に就任。現在の県警本部長に当たる重責で、沖縄が戦場になる危機が迫っていた。県民の疎開に取り組んだが、当時の知事は状況を楽観視し疎開に消極的だった。塚田さんは「それでも荒井の信念は変わらず、最悪の事態を想定して動いた」と話す。

 「まつげに火が付いてからでは遅い」。状況を打開するため19年6月、県庁職員、警察官の家族700人を疎開させて機運を高め、第2、第3次疎開を実現させた。10月の沖縄大空襲、12月の知事の突然の上京、転任と事態は混迷。20年1月にようやく新しい知事に島田叡(あきら)(1901~45年)が赴任した。以後は島田と二人三脚で奔走し、20年3月までに7万3千人を県外に疎開させた。

 4月1日には米軍が沖縄本島に上陸。県外疎開が不可能になった状況でも戦闘が激しい島南部から北部へ15万人を避難させた。「合わせると20万人以上を救ったことになる」と塚田さん。6月9日には警察警備隊解散となるが、「警察官の職務は忘れるな」と訓示した。「その後も毎日のように警察官が避難誘導中に殉職している。荒井の訓示に忠実だった」。塚田さんは警察官の行動に感銘を受けたという。

 日本軍の抵抗は沖縄本島南部へと追い詰められていく。荒井は赤痢が重くなっていた。6月26日、島田に抱えられるように、島南端の摩文仁(まぶに)の森へ入っていく姿を目撃されたのを最後に2人の遺体は見つかっていない。

 戦後、摩文仁の丘(同県糸満市)には島守の塔が建てられ、2人の終焉の地を示す碑がある。

 ◆顕彰へ機運高まる

 塚田さんは約20年前、荒井の長男、紀雄さんが書いた「戦さ世(ゆう)の県庁」(中央公論事業出版)を手にする機会があり、荒井が宇都宮高校の先輩であることを知った。「細々と研究を続けてきたが、世に出す機会がなかった」。平成25年の「宇高同窓会報」に寄稿する機会が巡り、大きな反響を得た。「宇高だけの誇りではない。栃木県の誇り」。そんな声も寄せられ、出身地・宇都宮で荒井を顕彰する機運が高まった。塚田さんは「荒井の名を残すため何をやるか、これからの課題」と話している。