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【赤字のお仕事】取材後記(6) 清流の後 “校正の神様”神代種亮

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【赤字のお仕事】
取材後記(6) 清流の後 “校正の神様”神代種亮

神代種亮が居宅を構えた東京市本郷区駒込千駄木町周辺(現文京区千駄木1、5丁目)。「日本校正協会」の所在地であり、校正往来も居宅で編集された。夏目漱石の旧宅や市川清流が葬られた吉祥寺も近い(小松勉撮影) 神代種亮が居宅を構えた東京市本郷区駒込千駄木町周辺(現文京区千駄木1、5丁目)。「日本校正協会」の所在地であり、校正往来も居宅で編集された。夏目漱石の旧宅や市川清流が葬られた吉祥寺も近い(小松勉撮影)

 平成24年5月から約6年にわたり市川清流とその周辺を調べ、関係者らに取材した私の連載も最終回となった。清流については文久元(1862)年の遣欧使節団に参加した後は、その足跡を記した資料は見つからなかった。維新後、新政府に採用された経緯から、旧幕府の開成所で洋書や外字新聞の翻訳文を校閲・校正していたのではないかと推測した。

 幕末や明治初期を「日本語」と、それに関わる翻訳や校正などから見つめる作業は、当初真っ暗な夜道を手触りのみで進むような不安があった。資料が集まり、貴重な時間を割いて取材に協力していただいた各方面の先達や関係者たちの話を聞くうち、何がしら手応えを感じられるようになった。連載が3分の2を過ぎたころには、清流その人と岩瀬忠震や大槻磐渓、箕作麟祥、福地源一郎ら彼に関わった人たちが日本語について「熱い議論」を交わす様子が浮かび上がってきた。

 清流は明治12(1879)年10月、58歳で死去する。その後の校閲・校正の分野は誰が担いどう変化したのか-一人の男に注目してみたい。

 芥川龍之介や永井荷風、姉崎正治ら著名な作家や学者が自著の校正を依頼し、昭和初期に「日本校正協会」を主宰して“校正の神様”と呼ばれた神代種亮(こうじろ・たねすけ 1883~1935年)のことだ。

           

 神代は「校正家、とでも言うより仕方のない畸人伝中の人」(「文豪たちの大喧嘩」谷沢永一著、新潮社)であり、本人と交際のあった岡野他家夫(たけお 1901~89年)は「頼まれもしないのに、諸大家-学者・文人の著書などに就いて正誤を厳密に指摘して、各著者に報告した」(「書國畸人伝」62年、桃源社刊)としている。

 明治16年6月、石見津和野(現島根県津和野町)に生まれた。清流の死から4年が過ぎている。松江師範学校を卒業して、津和野で教鞭(きょうべん)を執った。岡野の友人が中学校で数学を教わったという。

 神代の“校正癖”は既に郷里時代から萌芽(ほうが)していた。神代が共同編集人で創刊した「書物往来」の第一冊(大正13年)に教師のころ、高山樗牛(ちょぎゅう 1871~1902年)の「西盡解題」を日曜日の半日を費やして筆写したことが記されている。「其の後樗牛全集が出たのを見ると、之(注・西盡解題)が収載されて居らぬ。(中略)書を裁して姉崎先生(注・姉崎正治、文筆・評論家で樗牛全集の編集人)に送つた」(逸文につきて。注は筆者)。姉崎は神代の写本を原稿として、新たに全集に収めたという。「書を裁して」には誤字・誤記を書き出し、訂正したことが十分に予想できる。

 神代は同郷の森鴎外に心酔していたが、作品中の記述の誤りを指摘している。「涓滴(けんてき)」=明治43年=一節の「総ての物が灰色になつて、海軍の参考品陳列館のけばけばしい新築までが、その灰色の一刷毛をなすられている。兵学校の方から空車が一つ出て来て、ゆるゆると西の方へ行つた」(原文は旧漢字)である。書物往来の「鴎外の誤書」で神代は、文中の海軍の参考品陳列館は「海軍参考館」のことであり、兵学校は「海軍大学校」の誤りだと指摘。兵学校が兵学寮と称されて築地にあったのは、この20年前も昔のことだと事実関係を正している。

 明治末年に教師を辞めて上京。大正末年まで海軍大学校図書館に勤務した。岡野によると、勤務のない日は「すべて読書に費した。いわば独学自習であった」。図書館の蔵書を利用して明治文学の研究に没頭。後年、明治文化研究会に同人として参加している。この時期、東京朝日新聞に「校正の神様」と題した読者の投稿が掲載された(大正13年11月25日付)。

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