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【坂東武士の系譜・第2部プロローグ】「飛躍の時代」-那須野巻狩 幕府の権威誇示した軍事演習

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【坂東武士の系譜・第2部プロローグ】
「飛躍の時代」-那須野巻狩 幕府の権威誇示した軍事演習

那須野巻狩JR那須塩原駅前に展示されてる「巻狩鍋」大将鍋=栃木県那須塩原市大原間西 那須野巻狩JR那須塩原駅前に展示されてる「巻狩鍋」大将鍋=栃木県那須塩原市大原間西

 1221(承久3)年、後鳥羽上皇が執権・北条義時討伐の兵を挙げ、朝廷と鎌倉幕府の2大権力が全面対決した承久の乱では、義時討伐の院宣に続いて宣旨(天皇の命令伝達文書)も出された。

 後鳥羽上皇が挙兵したのは、鎌倉幕府では権力内部の暗闘が展開され、「その権力基盤は脆弱(ぜいじゃく)」とみていたからだ。頼朝の死後、将軍の地位を引き継いだ次男・頼家、四男・実朝は悲劇的な最期を迎え、実権は執権・北条氏に移っていく。頼家は将軍職剥奪(はくだつ)、伊豆・修禅寺に幽閉された後、暗殺された。実朝は雪の鶴岡八幡宮で兄・頼家の子、公暁に刺殺された。公暁は実朝を「親の敵」としていたが、その裏に陰謀が見え隠れする。公暁も討ち取られ、鎌倉幕府成立から30年余、頼朝の血筋は絶えた。この間、梶原景時、比企能員(よしかず)、畠山重忠、和田義盛ら有力御家人も滅ぼされた。

 県立博物館(宇都宮市睦町)の江田郁夫学芸部長は「後鳥羽院は読み間違えた。幕府内の不協和音はあっても(武家が政治の中心となる)政治の枠組みは思ったよりもしっかりしていた」と話す。

 後鳥羽上皇は「朝敵となった幕府に味方する武家もおるまい」とみていたが、幕府軍は東海道、東山道、北陸道の三方から総勢19万の大軍で京へ向かい進撃。勝敗はあっけなく決まった。後鳥羽上皇やその皇子、順徳上皇は配流。仲恭天皇は退位し、多くの上皇側公家が処罰された。

 結果として、東日本を中心とした鎌倉幕府と、京の公家に支えられた院・朝廷の二頭政治は解消。幕府が優位に立ち、朝廷の権力は制限された。幕府は京に六波羅探題を置き、朝廷監視を強める。

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