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【坂東武士の系譜(22)】宇都宮朝綱 頼朝の信頼厚い神官領主

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【坂東武士の系譜(22)】
宇都宮朝綱 頼朝の信頼厚い神官領主

「下野国史」に描かれた宇都宮朝綱像。地蔵院所蔵の像を模写した 「下野国史」に描かれた宇都宮朝綱像。地蔵院所蔵の像を模写した

 朝綱はどんな人物だったのか。江田さんは「リーダーとしての人望がうかがえる」と話す。平家が勢力を誇っていた平安時代末期、朝綱もその指揮下にあり、他家同様、京で内裏(皇居)の警護に当たる大番役の任務にも就いた。1180(治承4)年、頼朝が伊豆で挙兵したときも在京中。朝綱ら東国武士と源氏との関係を懸念した平清盛に抑留されるが、清盛の随一の側近、平貞能(さだよし)が取りなして京を離れることができた。在京していた東国武士勢力を糾合して、頼朝の元へ駆け付け、この行動が頼朝に高く評価された。

 朝綱は貞能の恩義を忘れていなかった。源平合戦で敗れた平家一門の中で、貞能は逃避行の末、朝綱を頼って投降。朝綱は頼朝に助命を願い出て貞能の身柄を預かることになった。

 神官領主にして頼朝の重臣。平家が焼き討ちした奈良・東大寺の大仏が復興される際は観音像改修の費用を負担。御家人の中でも頼朝の信頼が厚く、財力もあったことがうかがえる。

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 宇都宮朝綱(うつのみや・ともつな)1122~1204年。八田宗綱の子。源平合戦、奥州合戦には一門を挙げて奮戦。嫡男・業綱(なりつな)が早世すると、出家して益子に尾羽寺を建立。現在の地蔵院(益子町上大羽)。公田横領の罪で配流され、許されて帰国した後は益子の綱神社で余生を送った。

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