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【映画深層】今年は国産アニメ100年の節目の年! 忘れられた巨人、人形アニメーションの祖、持永只仁を知っているか

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【映画深層】
今年は国産アニメ100年の節目の年! 忘れられた巨人、人形アニメーションの祖、持永只仁を知っているか

上海美術電影で「ミャオと鳴くのは誰?」(1979年)制作の指導をする持永只仁(右)(東京国立近代美術館フィルムセンター提供) 上海美術電影で「ミャオと鳴くのは誰?」(1979年)制作の指導をする持永只仁(右)(東京国立近代美術館フィルムセンター提供)

 1917年に国産アニメーションが初めて製作、公開されてから100年。今年はさまざまな場でアニメ100周年を記念する企画が予定されているが、東京・京橋の東京国立近代美術館フィルムセンターでは、展覧会「人形アニメーション作家 持永只仁」が始まった。でも持永只仁(もちなが・ただひと)って、そもそもどういう人? 実は日本だけでなく、世界のアニメーションに多大な影響を与えた人物だった。

日本で修業し、終戦直前に満州へ

 「今、日本のアニメーションは世界に知られているが、その初期において貴重な作家がいたものの、なかなか正当な評価を得ているとは言い難い。持永只仁も重要な仕事を残しているのに、まだまだ知られるべき余地がある。忘れられた巨人という言い方ができると思います」と、今回の展覧会を企画したフィルムセンター主任研究員の岡田秀則さんは説明する。

 1919年に東京で生まれ、佐賀や旧満州の長春で育った持永は、39年に映画製作会社の芸術映画社に入社。「桃太郎の海鷲」などで知られるアニメーション作家、瀬尾光世(せお・みつよ)(1911~2010年)のもとで日本初の多層式撮影台の開発に携わるなど修業を重ね、45年春に満州に渡る。

 満州映画協会で働くものの、間もなく終戦。その後は撮影台を抱えながら内戦の中国を転々とし、最後は上海でアニメスタジオ「上海美術電影」の設立に尽力した。後進の指導にも熱心で、後に中国アニメ界を牽引(けんいん)する多くの人材を育てている。

 53年に帰国すると、人形アニメーションに特化した人形映画製作所を設立。日本初の人形アニメ映画「瓜子姫とあまのじゃく」(56年)を手始めに、「五匹の子猿たち」(56年)、「ちびくろ・さんぼのとらたいじ」(56年)、「ふしぎな太鼓」(57年)といった短編作品のほか、アサヒビールの「ほろにが君と三ツ矢嬢」などCMもたくさん手がけた。

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