産経ニュース

【生前退位】明治の元勲・伊藤博文はなぜ譲位容認案を一蹴したのか? 「本条削除すべし!」 明治天皇に燻る不満「朕は辞表は出されず」

ニュース プレミアム

記事詳細

更新

【生前退位】
明治の元勲・伊藤博文はなぜ譲位容認案を一蹴したのか? 「本条削除すべし!」 明治天皇に燻る不満「朕は辞表は出されず」

1月2日の新年一般参賀に集まった人たちに手を振られる天皇、皇后両陛下と皇族方。「生前退位」の議論は今後の皇室のあり方を大きく変えることになるかもしれない=皇居(長尾みなみ撮影) 1月2日の新年一般参賀に集まった人たちに手を振られる天皇、皇后両陛下と皇族方。「生前退位」の議論は今後の皇室のあり方を大きく変えることになるかもしれない=皇居(長尾みなみ撮影)

 確かに、皇室典範で譲位を容認すれば、天皇の意思を踏みにじる強制退位もあり得ない話ではない。旧皇室典範下の昭和初期には、陸軍皇道派が、協調外交路線を重視した昭和天皇を批判し、弟の秩父宮を天皇にすげかえようと画策したこともあった。

× × ×

 伊藤と明治天皇の関係は相当な緊張感があったと思われる。

 高輪会議の数年前、漢籍に通ずる明治天皇は、伊藤が文部省顧問に西洋的な教育論者を就任させたことに反発し、病気を理由に数カ月間、伊藤との面会を拒絶したこともあった。

 大日本帝国憲法下の天皇は、統帥権を持ち、重要な国策に意思を反映させる大権を有していた。それだけに伊藤は、天皇が自らの進退を決めることを認めれば、近代国家であっても国家の存亡を左右する事態を招きかねないと考えたのだ。

 しかも高輪会議が開かれた当時、明治天皇に成人の息子はいなかった。唯一の息子である7歳の明宮(はるのみや)嘉仁(よしひと)親王(後の大正天皇)の健康が優れないこともあり、万一明治天皇が譲位すれば、皇統断絶の恐れさえあった。

 実際、明治天皇は皇室典範で認められたならば、譲位を行った可能性が十分ある。侍従武官長だった岡沢精(くわし)(1844~1908年)は大正5年の「出張記」にこう記している。

 「(明治天皇は)皇室典範に抵触なければ御退隠の上京都に住居も哉と思(おぼし)召(め)されし程推し奉りし」

 明治34年5月、伊藤が4度目の首相の辞意を上奏した際も、明治天皇はこう語ったという。

 「卿等は辞表を出せば済むも、朕は辞表は出されず」(奥原慎平)

このニュースの写真

  • 明治の元勲・伊藤博文はなぜ譲位容認案を一蹴したのか? 「本条削除すべし!」 明治天皇に燻る不満「朕は辞表は出されず」
  • 明治の元勲・伊藤博文はなぜ譲位容認案を一蹴したのか? 「本条削除すべし!」 明治天皇に燻る不満「朕は辞表は出されず」

「ニュース」のランキング