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【本郷和人の日本史ナナメ読み】大逆事件をめぐって(下)裁判が史学に与えた思わぬ影響

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【本郷和人の日本史ナナメ読み】
大逆事件をめぐって(下)裁判が史学に与えた思わぬ影響

藤田幽谷像(東大史料編纂所蔵) 藤田幽谷像(東大史料編纂所蔵)

 明治43(1910)年に明治天皇の暗殺を計画した嫌疑で逮捕された幸徳秋水は、法廷で「いまの天子は、南朝の天子を暗殺して三種の神器を奪い取った北朝の天子ではないか」と発言したといいます。暗殺して云々(うんぬん)は穏やかではありませんが、長禄元(1457)年に奈良の吉野にひそんでいた後南朝の自天王(尊秀王。ただし、この方の血縁関係は不明)が殺害され、奪い去られていた三種の神器のうちの「勾玉(まがたま)」が京都の天皇のもとに還(かえ)った事件を指すものと思われます。この発言が外部に漏れたことがきっかけとなり、明治末から大正にかけて、南北朝正閏(せいじゅん)論争が盛んになりました。

 鎌倉時代後期、皇統は持明院統と大覚寺統の2つに割れました。両統は自分たちから天皇を出そうとして、熾烈(しれつ)な争いを繰り広げます。その中で、大覚寺統の後醍醐天皇が幕府の討伐に成功して建武政府を創成しますが、足利尊氏は持明院統の光厳上皇を奉戴することにより、たくみに「朝敵」の汚名を避けながら、室町幕府を樹立します。後醍醐天皇は吉野に逃れて自らの正統性を内外に訴え、ここに京都と吉野に2人の天皇、2つの朝廷(北朝と南朝)が並び立つ異例の事態が生じたのです。

 現代の皇室が北朝の子孫でいらっしゃることは、疑いの余地がありません。ですから、明治政府が北朝こそ正統であるといえば、何も問題はなかった。実際に史実を見てみると、室町時代以降、江戸時代の終わりまで、京都においては「北朝=正統」の認識が定着していました。寸毫(すんごう)も揺らぎはなかったのです。ところが、明治の元勲たちは、みな水戸学の影響を受けていた。尊皇攘夷の思想を生んだ水戸学は、一方で徳川光圀(みつくに)の時代から、「南朝=正統」を訴えていた。このために明治政府は後醍醐天皇を尊崇し、南朝を正統としました。でも確かに明治天皇は北朝の子孫でいらっしゃるわけで、南朝を正統としたことは、幸徳秋水でなくとも「おかしいんじゃないか?」と疑問を投げかけられる危険性を抱えていたのです。

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