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【書評】数学者・藤原正彦が読む恩師・安野光雅著『いずれの日にか国に帰らん』 自分の故郷に思える不思議

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【書評】
数学者・藤原正彦が読む恩師・安野光雅著『いずれの日にか国に帰らん』 自分の故郷に思える不思議

『いずれの日にか国に帰らん』安野光雅著 『いずれの日にか国に帰らん』安野光雅著

 私が小学校の4年生になった春、強い天然パーマに好奇心に満ちたギョロ目の、若い図画工作教師がわが校に着任した。先生は絵ばかりでなく、なぜか数学の楽しさについて語り、自身の体験による二等兵物語でクラスを爆笑の渦に巻き込んだ。美的感受性、数学、ユーモアという、後の私にとって最も大切となったものを、幼少期にこの先生に教わった。27歳の安野光雅先生であった。

 本書は先生が島根県津和野町で過ごした少年時代の思い出を、美しい水彩画とともにつづられたものである。少年時代、すなわち昭和1ケタ時代とは、世界恐慌、東北大凶作、満州事変と続いた暗い世相の時代であった。

 本書で活写される津和野の人々は、その中で明るくたくましく生きていた。家族や友人などの思い出を中心に淡々と語られるが、先生独特の情緒やユーモアが行間にこぼれていて、読みながらしっとりした気分になったり、思わず口元がほころんだりする。

 私は大学の助手だった頃、一人旅で津和野を訪れた。小京都といわれる品のよい街並み、森鴎外の旧居、そして安野先生の出身地だったからである。夜に着いて翌朝一番、宿の主に町で一番古い小学校のありかを尋ねた。町外れの津和野小学校だった。山を背にした古びて黒ずんだ木造校舎の窓から不意に流れてきた九九の唱和が、緑なす田畑を満たしたと思うとスルスルと木立を越え、春の大空へ舞い上がっていった。この光景をじっと眺めながら胸をつまらせていたのを思い出す。安野先生の通った小学校であった。

 見開きいっぱいに描かれた20枚余りの、郷愁のにじんだ絵を見ていると、ひっそりと静まった山陰の津和野が自分自身の故郷のように思えてくるから不思議だ。

 本書には10年ほど前に亡くなった弟さんを追悼する文章が多くある。絵の好きだった弟さんの才能あふれる絵も巻末にある。弟が13歳で養子に出されたときに反対しなかったことは先生の心に深い傷となっているようだ。そういう先生である。(山川出版社・1800円+税)

 評・藤原正彦(数学者)

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