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【本郷和人の日本史ナナメ読み】大隈重信と野球(上)日本独自の始球式の創始者は?

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【本郷和人の日本史ナナメ読み】
大隈重信と野球(上)日本独自の始球式の創始者は?

明治41年、来日した米国のプロ野球選抜チーム「リーチ・オール・アメリカン」と一緒に写真に納まる大隈重信(後列左から4人目)=『野球歴史写真帖』(大正12年)から 明治41年、来日した米国のプロ野球選抜チーム「リーチ・オール・アメリカン」と一緒に写真に納まる大隈重信(後列左から4人目)=『野球歴史写真帖』(大正12年)から

 大隈が日本初の政党内閣の総理大臣になったのが明治31(1898)年のこと。総理が大隈で内務大臣が板垣退助。いわゆる「隈板(わいはん)内閣」(文部大臣になったのが尾崎行雄、また犬養毅)です。しかし、薩摩・長州の藩閥ではなく政党人の内閣なら素晴らしい政治ができたかというと、そういうわけでもなかった。旧自由党と旧進歩党との勢力争いにより、わずか4カ月で総辞職を余儀なくされています。その後、大隈は明治40年に政界を引退(のち復帰します)。早稲田大学総長に就任するなど、文化事業に精力的に取り組んでいました。

 それで総長による始球式と相成った。これ以降、バッターは投球がボール球でも真ん中に来ても(かつて小泉純一郎元首相は、かっこよくど真ん中に投げましたね)、始球式の主役である投手役に敬意を表すため、空振りをすることが慣例となりました。この日本式の始球式はその後アジアの国々に広まっていき、さらには本場アメリカでも採用されることがあるそうです。

 大隈という人は外交も財政もいけた。すごい政治家です。でも、本領は外交だったのかな。その才能を高く評価したのが伊藤博文で、不平等条約改正を目的として、明治21(1888)年には外務大臣に登用しました。これ以前、明治十四年の政変で2人は激しく対立し、大隈は下野していたのに、です。その政敵である大隈を閣僚として抜擢(ばってき)する。このあたりは伊藤の懐の深さなのでしょう。また、国益のためならばと小さなメンツにこだわらずに伊藤に協力する。これは大隈の偉さだと思います。

 次の黒田清隆内閣でも大隈は外務大臣に留任しますが、外国人判事を導入するという条約改正案を示して、反対派の強い批判を受けます。そのために明治22年10月、国家主義組織・玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受け、右脚を切断することになりました。

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