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【本郷和人の日本史ナナメ読み】名将たちの城攻め(上) 信玄が徳川の城を次々に落とせた理由

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【本郷和人の日本史ナナメ読み】
名将たちの城攻め(上) 信玄が徳川の城を次々に落とせた理由

 元亀3(1572)年9月29日、武田信玄は山県昌景らに3千の兵力を預けて先発させ、10月3日、自身も2万2千の兵力を率いて甲府から出陣。遠江に侵攻を開始しました。いわゆる、信玄の西上作戦です。山県隊は現在の飯田線のルートを通り、信玄本隊は国道152号(当時は秋葉街道とか塩街道と呼ばれた)を通って南下します。

 山県隊は北三河の国人領主「山家三方(やまがさんぽう)衆」(のち徳川方に転じる奥平氏を含む)を味方に付け、田峯(だみね)城、作手(つくで)城、長篠城からの支援(兵糧など)を受けます。長篠城の南東の柿本城を落とし、続いて遠江の伊平(いだいら)城を落として11月初旬、二俣城を攻囲していた信玄本隊に合流しました。飯田ルート制圧、完了いたしました、と報告するところでしょう。

 青崩(あおくずれ)峠を越えて信玄本隊が遠江に入ると犬居城は即座に降伏し、開城。馬場信春率いる5千ほどの1隊には只来(ただらい)城を攻略させて二俣城へ。残る1万7千の信玄本隊は天方(あまがた)城・一宮城・飯田城・向笠(むかさ)城など北遠江の徳川諸城を次々に落として二俣城に向かいます。浜松城の徳川家康もただ手をこまねいていたわけではなく、この時点で野戦のチャンスをうかがいますが、とても勝てないと判断し、浜松城に退却します。

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