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【静岡古城をゆく 井伊家躍進の礎】小牧・長久手の戦い(愛知県長久手市) 武田の「赤備え」再編し直政奮迅

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【静岡古城をゆく 井伊家躍進の礎】
小牧・長久手の戦い(愛知県長久手市) 武田の「赤備え」再編し直政奮迅

長久手古戦場近くの色金山歴史公園には家康が腰掛けて軍議を開いたとされる石が残されている 長久手古戦場近くの色金山歴史公園には家康が腰掛けて軍議を開いたとされる石が残されている

 井伊虎松(後の直政)は、今川氏が滅亡し遠江国が徳川家康の支配下になった天正3(1575)年2月、井伊谷に戻った。御年(おんとし)15。井伊家再興を目指す直虎(次郎法師)らの働きにより家康に仕官して「万千代」と称した。

 この頃の家康は武田勝頼との戦いに明け暮れていた。天正9年3月の高天神城の攻防戦では、徳川四天王である本多忠勝や榊原康政らと並び「旗本先手の将」という“家康付き”の先陣隊長に万千代は登用されている。

 翌10年3月に武田氏は滅亡し、さらに織田信長が本能寺で討たれると、武田氏旧領を家康と小田原の北条氏との間で争奪戦となった。しかし、双方が争うのは得策でないため和睦交渉が始まり、その使者に抜擢(ばってき)されたのが22歳の万千代であった。この年、武田氏の旧臣ら117人を付属させ、武田軍の赤備えを再編して「井伊の赤備え」が誕生する。名も「直政」と改めた。

 信長亡き後は、天下取りに邁進(まいしん)する豊臣秀吉と織田信雄・家康の連合軍が、天正12年4月の小牧・長久手で激突。この戦いは「三河中入り策」といわれ、徳川軍にとって手薄となっていた岩崎城(日進市)が、秀吉軍の猛将・池田恒興や森長可らに攻め落とされた。後を追うように家康も出陣し、従った直政も赤備えを率いて先鋒(せんぽう)を務め、見事猛将2人を討ち取った。

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