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【月刊正論】世はこともなし? 第121回 耕余塾が生んだ男

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【月刊正論】
世はこともなし? 第121回 耕余塾が生んだ男

 高校時代からの友人に田川五郎という男がいる。田川君は慶応大学をでて読売新聞に入った。横須賀の素封家の五男に生まれ、長兄の政治家田川誠一氏は元自治相をつとめた。私こと老蛙生の札幌支局勤務時代、田川君は読売の北海道総局だった。よくよくの縁があったというべきだろう。

 そろって新聞記者は定年になったが、物書きの習性は終息せず、田川君は郷土史を中心にいくつもの著作を世に送りだし、そのつど敬服してきた。そしてことしになって贈ってくれたのが『民権学舎/耕余塾の人々』(中央公論事業出版)という一書だった。

 耕余塾とは明治の初め、神奈川県藤沢の一隅に生まれた小さな私塾の名である。

 塾といえば、この5月、世界遺産へ登録勧告された松下村塾(山口、吉田松陰)はじめ適塾(大阪、緒方洪庵)、鳴滝塾(長崎、シーボルト)、咸宜塾(大分、広瀬淡窓)、洗心洞塾(大阪、大塩平八郎)など、江戸時代の教育は藩校、私塾、寺子屋の三本立てで行われたそうだ。

 相模湾をのぞむ藤沢市は江の島や鵠沼など海水浴場で知られるが、若者に人気のサーフィンやビーチバレーは日本ではこの地で始まったという。明治5(1872)年春、その藤沢の中心地から南西へ2キロほど離れた戸数70ばかりの高座郡羽鳥村(いま藤沢市羽鳥)に、小笠原東陽という武士の儒学者が招かれて小さな塾を開いた。それが耕余塾で、東陽は58歳で死んだが、弟子が引き継いで明治30年まで存続し、卒業生は3000人に達したというから大したもの。東の松下村塾、あるいは適塾といっていいかもしれない。

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