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【正論】肌を通じた外圧の痛覚を取り戻せ 文芸評論家・小川榮太郎

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【正論】
肌を通じた外圧の痛覚を取り戻せ 文芸評論家・小川榮太郎

文芸評論家・小川榮太郎氏(飯田英男撮影) 文芸評論家・小川榮太郎氏(飯田英男撮影)

 1854(安政元)年、ペリーの来航によつて、日米和親条約が締結された。この大きな外圧に当時の日本人はどう反応したか。これは、日米安保による戦後の平和といふ「地上の楽園」が事実上終焉(しゅうえん)してゐるのに、それに即応できずにゐる今の日本人にとつて、熟考に値する主題と思はれる。

≪「腰抜」ではなかった幕府の対応≫

 最も対極的な反応として、幕府と吉田松陰のそれを簡潔に振り返つてみよう。松陰は幕府の交渉を手紙でこう書いてゐる。「幕府の腰抜(こしぬけ)侍が頻(しき)りに和議を唱へ候こと、誠に一砲丸をも発せざる前にかかること申出るは、かの弱宋の小人原にも劣りたる識見、実以(もっ)て口語に絶したる業に御座候」

 では、実際の幕府の対応は「腰抜」であつたのか。内実を見ると、さうは言へない。充分及第点を与へられるものであつた。交渉を専ら担当したのは、老中の指令を受けた応接係であり、首席は大学頭、林復斎である。

 例へばこんなやりとりがある。ペリーは、日本が漂流民を保護せず、扱ひが非人道的だと非難し、かう言ふ。「貴国の国政が今のままであっては困る。多くの人命にかかわることであり、放置できない。国政を改めないならば国力を尽くして戦争に及び、雌雄を決する準備を整えている。我が国は隣国のメキシコと戦争をし、国都まで攻め取った」

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